僕が僕であるために・八杉将司『Delivery』

 

 自分はなぜ『自分』なのだろう。自分を自分たらしめているものとは何なのか。本作を読み終えてふとそんな事を思う。

 この物語の登場人物達は、様々なテクノロジーによって自己を喪失して行く。『攻殻機動隊』における全身義体化技術の様に、本作には『ドウエルシステム』と呼ばれるサイボーグ化技術が登場する。それは脳と脊髄以外を全て機械化する事を可能にした技術だが、『ドウエルシステム』とは良い名前だと思う。正に『ドウエル教授の首』という訳だ。更にドウエルシステムには『ナーバスチューナー』という機能も備えられている。これは脳に直接電気刺激を与えたり、神経伝達物質の意図的な投与を行ったりする事で、人間の感情をある程度制御する事を可能にした技術だ。これを使えば、怒りや悲しみ、恐怖等の感情を抑制してしまう事も出来る。
 これらの制御を他人に握られている場合、脳だけになった『自分』はロボットの様な扱いを受ける事になるだろう。相手はスイッチを切る様に自分の意識をシャットダウンする事も出来るし、その様な扱いを受ければ当然感じる筈の怒りも消し去ってしまう事が出来るからだ。

 仮に、今の自分から脳と脊髄を引き抜いて、機械の体に収めたとする。それは自分だろうか。それとも自分の脳を使って思考するロボットだろうか。

 人はつい、『自分らしさ』とか『自分探し』という言葉を使ってしまう。それは確固たる『自分』というものがどこかに存在しているという事を前提にしている。目には見えず、手で触れる事が出来なくても、確かに『自分』というものはあるのだと人は思っている。

 では、その『自分』とは何なのだろう。

 自分から様々な要素を削ぎ落として行く様を想像してみる。その途中で自分の中に、「これを失ったらもう自分ではないな」と思える様なものが見付かったなら、それが自分を自分たらしめているものなのではないだろうか。
 生身の体を捨てても人間が行きて行ける様になった世界。システムが人間の感情を制御する事さえ可能になった世界。遺伝子操作が新たな種を生み出すまでに発達した世界。そんな世界の中で自分が自分である為に失ってはならないものとは何だろう。その答えの一端が本作にはある様に思う。

 考える事。考え続ける事。その中で何かを感じ、思うという事。その中で人は悩んだり迷ったりもするが、そんな移ろい行く心の中にも、容易に譲り渡す事が出来ないものがある。心の中にある、変わらないもの。譲れないもの。それが『自分』というものを形作っている要素なのではないか。
 当然、ものの考え方や価値観等は周囲の環境から影響を受けて変化して行くだろうし、10年前の自分と今の自分は別人と言っていい位には変わってしまっているのかもしれない。それでも、その変わって行く心の中にも、変わる事のない部分がある。上手くは言い表せないが、そうやって最後まで残って行くものが『自分』というものなのではないか。目には見えないが、自分という存在を貫く芯の様に、それはある。

 かつてこう歌った歌手がいた。

“僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
 正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで”
 尾崎豊『僕が僕であるために』

 自分が自分である為に失ってはならないものがあるとすれば、人はそれを守る為の戦いに勝ち続けなければならないのだろうか。それは誰との、何との戦いなのだろう。仮にその敵がこの世界そのものであったとしても、或いは変わって行く自分自身であったとしても、自分は戦い続け、勝ち続けて行く事が出来るのだろうか。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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