私の現実、貴方の現実・神林長平『ぼくらは都市を愛していた』

 

 「自分が今見ているこの世界こそが現実である」という事を、自分達は疑わない。例えば目の前に一冊の本があったとする。普通なら、誰が見てもそれは本だ。それを読んでどんな感想を抱くかという事は十人十色であるにしても、それが本であるという事実、そしてそこに記された文字列は誰が見ても同じものだからだ。読む人の違いによって本の中身が変わる事などないし、また本を見て「これは断じて本ではない」等と妙な事を言い出す者もいない。そう、普通ならば。

 しかし一方で、自分が認知している「この現実」とは「どの現実」の事なのかと言えば、それは自分がこの目で見て、この耳で聴き、この手で触れ、五感を使って得た外部情報を脳が処理する事によって知覚している「自分の脳内にある現実」、言い換えれば「自分の脳内にしかない現実」の事なのだと考える事も出来る。そして当然の事ながら、自分の脳内にある「自分が現実だと認識している世界」は、決して他人と共有する事が出来ない。「私の現実」が、目の前にいる他の誰かが認識している「貴方の現実」と本当に同じものなのかどうか。それを確認する手段を自分達は持っていない。そう考えた時に、本作が描く世界の構造がわかって来る気がする。

 本来決して共有される事無く、ばらばらに存在している無数の「私の現実」の中で生きている自分達が、それでも「私達の現実」とでも言うべき共通認識を持って社会を形成し、互いの意思疎通を破綻無く行う事が出来ているのはなぜか。先の喩えで言うなら、自分達が一人の例外もなく「本は本である」と認識できるのはなぜか、という事になる訳だが、本作はその本質的な部分に切り込むと同時に、「では、その共通認識を失った世界とはどの様な世界なのか」という事を執拗に描写して行く。そしてそれは今自分達が生きているこの世界の姿を鋭く描き出す事にも通じている。

 共通認識が崩れた世界の実例として、最も極小のものは「価値観の相違」だったり「ジェネレーションギャップ」だったりするのだろう。その程度の事は自分達も日々経験している事であって、驚くに値しない。「普通」や「常識」という言葉が定義するものも時代の変遷とともに変質して行くから、実生活の中で自分が思っている普通や常識が当てはまらない相手に出会う事は多々ある。そうした時に感じる違和感や、互いの意思疎通の齟齬はまだ「世の中には自分と異なる考えを持った人間もいるのだろう」として受け流す事も出来る。しかし、もっと大きな共通認識の枠組である「私達の現実」というものが打撃を受け、破壊されたとすれば、自分達が作り上げた社会もまた崩壊する。自分達は再び、誰とも共有される事のない各々の「私の現実」の中で、自分だけを頼りに生きて行く他なくなる。
 では本作は、そうならない様に、世界がバラバラになってしまわない様に、私達の現実という共通認識を大事に生きていかなければならないよ、という話なのかと言えば、これは否だろう。むしろ本作は「私達の現実」が崩壊する時が来たとして――その兆しは既にあるのかもしれないが――それを越えて各人がいかに世界と、現実と向き合い、生きて行くべきかを示唆している。そんな気がする。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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