終わろうとする世界の中で・佐藤友哉『星の海にむけての夜想曲』

 

 一時期、取り憑かれた様に『終末』をテーマにした作品を漁っていた時期がある。そもそものきっかけは『終末の過ごし方』っていうゲームがあってね……という話を語り出すととても長くなるので割愛するけれど、今でも『終末』ものは結構好きだ。そういえばここ最近紹介した作品のいくつかも終末的な世界観を持っている事に気付く。そして本作もまた、人類が緩やかに滅びに向かおうとする世界で生きる人々の姿を描き出している。

 突如として空を埋め尽くした『花』によって、人類は太陽も月も星空も失った。更に『花』がもたらした花粉を吸い込む事で『花粉病』を発症した人間は正気を失い、無差別に殺戮を始める。世界中が無政府状態に陥り、地上は暴力と破壊で覆われ、『花』を駆除する術を持たない人類は滅びへと向かい始める。

 人類が滅亡するとか、世界が終わるとか、終末というのは元々ネガティブなものだ。少なくとも明るい話ではない。けれど世の中には自分の様に、終末の物語に救いを見出そうとする人間もいる。まあ単純にひねくれ者とも言うけれど。
 この自分の嗜好について上手く説明は出来ないのだけれど、それでも自己分析するならば、自分は恐らく『平等』というものを実現できるのは終末だけだと感じているのではないかと思う。それが正しいかどうかはこの際置くとして。

 同じ『平等』でもプラスの方向で、世界中の人々が穏やかに、幸せに、何不自由なく暮らして行ける社会が実現するのなら、その方が良いに決まっている。しかし現実にはこの世界の幸福は有限で、いつも誰かとの奪い合いだ。物質的な豊かさはもちろん、社会的な地位や発言力、より良い人間関係に至るまで、全ては持てる者と持たざる者とに分けられている。どちらも同じ人間である筈なのに、両者の格差は埋まらない。例えば発言力のある人間、言い換えれば声の大きい人間が発する言葉が社会に大きな影響力を持つ一方で、少数派の意見は黙殺される。富裕層が享楽的な暮らしをする一方で、貧しい者は飢える。それらの格差が個人の努力の結果として生じるのならばまだいい。皆が同じスタートラインに立って競争できると言うのなら、そこで負ける事も受け入れられる。しかし現実には生まれながらにして恵まれた立場にいる者と、そうではない者がいる。皆にチャンスがある様に見えて、実際は可能性を奪われた者がいる。それがこの現実世界の常識だ。少なくともこれまでの歴史の中では。

 自分は思う。もしも『終末』というものが本当に来るのなら、それこそが唯一実現可能な平等なのだろうと。持てる者も、持たざる者も、皆等しく滅びに向かう世界。どれだけ社会的地位があろうと、金を積もうと、終末から逃れる事が出来ない世界。それはマイナスで、ネガティブな世界だろうけれど、同時に優しい世界でもあるのではないか。
 人類が終末に追い込まれて、行き着くところまで行って、そこでようやく自分達は平等な「一人の人間」に戻れるのではないか。そして生まれ持った境遇や立場といったものを脱ぎ捨てて、互いに向き合いながらただの人として『生きる』事が出来るのではないか。

 そう、自分が終末の物語を求めるのは『生きる』という事をより明確にしたいからなのではないかと思う。日々の暮らしの中で流され、ぼやけてしまっている自分の生の輪郭を、終末の物語は際立たせてくれる気がするのだ。自分にとって本当に大事なものは何なのか。最後の最後まで本当に捨てられないものは何なのか。何もかもが終わろうとする世界の中で、その最期までの時間をいかに生きて行くのか。最後まで自分である事を投げ捨てずに生きて行けるのかどうか。或いは、その最後を、終末を乗り越えて行けるのかどうか。自分はきっと、それらの問いの答えを探し続けているのではないかと思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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