消えて行く自分の中に残るもの・カフカ『変身』

 

 昨日、また何度目かの誕生日を迎えた。まさか30台半ばまでこんな風に生きる事になるとは、中学二年生の頃の自分は想像だにしていなかっただろうと思うと、本当に感慨深い。色々な意味で。

 そんな誕生日の翌日に紹介する本として『変身』を選ぶ事に、何やら自分の中の悪意を見る様な気がするが、それはこの際脇に置く。そして本作のあらすじ等については他を参照されたい。本作についてこれまで様々な研究者がそれぞれの見解を述べて来た様に、様々な解釈が成立するのが本作の特徴だが、以下に自分が書く事は、昨日30代半ばの誕生日を迎えた一人の男が、グレーゴル・ザムザの数奇な一生をいかに受け止めたかという事であり、『変身』という作品についての評論ではなく、まして作者であるカフカ氏その人についての分析でもない。 


 “ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。”


 この余りにも有名な一文から、『変身』という物語は幕を開ける訳だが、現実にこんな事はあり得ない。まあどこかの悪の秘密結社に拉致された挙句、マッドサイエンティストの手で「怪人虫男」とかに人体改造されない限りは。しかしながら一方では「自分が自分でなくなって行く感覚」というものを経験した事がある人もいるだろう。自ら思い描く『自分像』というものと、実際の自分とが乖離して行く感覚。不意に――例えば誕生日等に――過去の自分に思いを馳せる時、今ここにいる自分とのギャップに気付かされる様に。

 過去の自分と今の自分とは、本当に同じ『自分』なのだろうか。例えば10年前の自分と、今の自分とは本当に連続しているのだろうか。まして20年前、中学生だった頃の自分と今の自分とではどうだろうか。仮に中学生の自分がある朝目覚めた時、自分の姿が30台半ばになっている事を発見したとしたらどうだろう。それは目覚めた時に自分が虫になっている事を発見したグレーゴルが受けた衝撃と大差ない程のショックかもしれない。単純に、自分の若さというものが浦島太郎的に一瞬で失われてしまったからという訳ではなく、自分の思考や嗜好、価値観や生き方といったものがこれ程までに変質してしまうという事が起こり得るのだろうか、という意味においてだ。

 以前にも似た様な事を書いたけれど、『変身』の様に「ある朝虫になっている自分を発見した」とまでは行かずとも、時に人は「変わってしまった自分」との対面を余儀なくされる。そして、その変わってしまった自分を引き摺る様にして、それから先の日々を生きて行く事を強いられる。自分が虫になってしまったかの様な違和感の中で。それは辛い事だが、人は変わって行く生き物だ。しかしその中にあって、変わらないでいたい部分、譲る事が出来ない部分というものがもしあるのだとすれば、それは虫となってまで抱え続ける人間の心の、その更に奥に存在する何かなのではないかと思う。上手くは言えないけれど。

 変わらないでいたいと思う心があって、それでもなお変わって行ってしまう自分自身がいる。無くしたくないもの程失ってしまう、忘れたくないもの程記憶から抜け落ちて行ってしまうなんていう事はよくある話で、今更悲観してみても始まらない。自分だけではなく、皆がそうなのだから。悲劇ぶって自分に酔ってみても何にもならない。
 ではどうするのかと言えば、自分はまたここにこうして『今現在の自分の記憶』を保存しようとしている。いつか消えてしまうだろう自分自身の姿を写真に収めておこうとでもするかの様に。それは無駄なのかもしれないが、どうやら今この時の自分は、まだそれを続けて行こうと思っているらしいから。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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