失敗作である僕らは・上遠野浩平『戦車のような彼女たち Like Toy Soldiers』

 

 日本は軍事を語るという事に寛容ではない。戦争の話題が取り上げられるのは主に広島、長崎への原爆投下、そして終戦記念日が重なるこの8月くらいのもので、「あの様な戦争を二度と繰り返してはならない」という反省をする為の言論だけが繰り返される。もちろん戦争は酷いもので、反戦の意識は常に持っていなければならないが、例えば日常の中で軍事というものについて語ろうとすれば、大抵は「軍事オタク」「ミリタリーマニア」といった認識をされてしまう。果ては「この人は戦争を容認しているのだろうか」などという誤った認識を持たれてしまう事もある。だからこの日本という国で軍事について語る事を許されているのは軍事評論家等の専門職に就いている方か、フィクションで飯を食っている作家やゲーム製作者等の一部の人々だけだ。それを今更どうこう言う気はないのだけれど、ではそうやって戦争が終わる度に『反省』を積み重ねて来た筈の人類の歴史の中から戦争というものが消え失せたかといえば、なおも現在進行形の戦争や紛争が世界には溢れていて、自分は自嘲気味に苦笑する。生かされてないじゃん、『反省』。原発問題も似たような事にならなければいいのだけれど……とまあ、ここまでが個人的な愚痴。

 戦争や兵器について考察する事は、こう言っては何だけれど興味深いものだと思う。例えば本作でも語られている『戦車』ひとつとってみても、そこには開発史から実際に運用された際の戦果等、語るに値する様々なテーマがある。そしてひとつの成功例があれば、それ以上の『失敗作』が生み出されるのもまた世の常で、「『敵に勝つ』という目標の為に効率化して行かなければならない兵器開発の途中で、なぜこんな妄想の塊の様な兵器が開発されてしまったのか」と頭を抱えたくなる様なものも数多く存在する。人間のやる事に完璧などあり得ない、と言い切ってしまえばそれまでの話だが、自分はそんな『失敗作』達の物語が結構好きだ。それはどこか、遠くに見える理想像に向かって生きている筈の自分達のままならなさと重なっている気がする。

 理想像。夢や目標。それらを目指して手を尽くしてはみたけれど、出来上がって来たものはそれとは程遠い失敗作だった。そんな話はどこにでも転がっているけれど、例えば戦車達にしても、自分達にしても、一度この世に生み出されてしまったからには、その中で何とか生きてみせるしかない。たとえ誰かに『失敗作』と言われようと。

 さて、今生きている人の中には『世の中に居場所がない』と思っている人もいるだろう。自分は失敗作で、他の大多数の人々よりも能力が劣っていて、だから誰にも必要とされず、居場所も与えられないのだ、とか。多分、『その通りだよ』というのが一番身も蓋もない回答で、そんな心ない言葉を投げつけられた人はまた「自分は失敗作なんだ」という思いを強くして行く。そして絶望し、孤立し、孤独を深めて行く。でもそんな事を言い出したら、ひとつも欠陥を抱え込んでいない人間なんてこの世にはいない。鋼鉄製の戦車ですらそうである様に、自分達は程度の差こそあれ、皆どこかに欠陥がある失敗作なのかもしれないのだから。そう、ポルシェ式ヤークト・ティーガーの様に。

 理想像にはまだ程遠い、数々の欠陥を抱え込んだ『失敗作』達の物語は、そのまま自分達の生きている現実に当てはめて考える事が出来るだろう。では失敗作である自分達に希望はあるのか、居場所はあるのかと言えば、それはきっと同じ様に失敗作である誰かの隣なのかもしれない。狭量な社会が失敗作の為の居場所を用意しないというのなら、自分達はお互いがお互いの居場所になろう。それがきっと本作のテーマのひとつなのだと思う。

 こうして失敗作である自分達は、重過ぎる自重に耐えられない戦車の無限軌道の様な足取りでのろのろと前へ進んで行く。背負った装甲や装備を捨てて身軽になれればもっと楽に進めるのに、と思いながら、それでも分不相応に抱え込んだものを捨てられずに前進し続ける。時に悲鳴を上げるエンジンを鼓舞しながら。その先に希望があればいいな。今はただそう思う。

(で、ヤークト・ティーガー程強くもないお前は、武器と装甲の代わりに何を積んでてそんなに重いんだ?)
(……まあ、色々とね。)

 BGM“前進/僕/戦場へ”by LUNKHEAD

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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