善悪の定義・カミツキレイニー『憂鬱なヴィランズ』

 

 ……ああ、本を読んだり感想を書いたりする時間がまともに取れない。というわけで、本作の感想もちょっと砕けた感じで失礼。

 今回は、少し前に読み終えてはいたものの、感想を書けずにいたカミツキレイニー氏の『憂鬱なヴィランズ』を。帯の文は『物語の悪役(ヴィランズ)に、惹かれてはいけない。』
 冒頭のロリコンネタからどんな風に物語を展開するのかちょっと心配になったりもしたけれど、個人的に期待していたダークな部分もあり、あとがきで作者も言っている様な『学園異能力バトル』ものとしてはきっちりまとまっている。自分としては物語の設定とガガガ文庫作品という事を合わせるともっとドス黒い話でも一向に構わないというか、むしろそっち方面を期待せずにはいられないのだけれど、まあこんな特殊趣味の人間は限られているだろう。

 最低な結末の絵本『ワーストエンド・シリーズ』。そこでは自分達のよく知る童話が全てバッドエンドを迎える様に描き直されている。『白雪姫』は毒に侵され二度と目を覚まさず、『桃太郎』一行は赤鬼に惨敗する。そして、その絵本の読み手は物語の悪役--ヴィランズから期限付きで特殊な力を借り受ける事が出来る。しかし一度その期限を過ぎれば、読み手はヴィランズに完全に取り憑かれ、自分の中にある欲望を剥き出しにされてしまう。ヴィランズの能力を借りる為に必要なのは、その絵本を所持し、なおかつ彼等『悪役』に共感し、心を許す事--。

 物語の悪役に魅力を感じたり、共感したりする事は無いとは言えない。善悪というのは往々にして自分の立ち位置から見える景色による区別でしかないからだ。世間一般で言われる善と悪の線引きは、現実にはそこまで強固なものではない。絶対的な善や悪が存在しないのなら、人は、そして人の心はその間を行き来している事になる。自分にとっては善である事が、立場を異にする者からすれば悪でしかないなんていう事は世の常だ。善と悪を分かつ線。その基準は人の数だけ存在し、また自分の中の基準も一定ではない。

 立場が変われば、価値基準も変わる。自分もそうだけれど、『仕事だから』の一言で嫌な事でも黙ってやれるのが社会人という奴で、自分と家族の生活の為なら唯々諾々と会社の命令に従って動く人間が会社にとっての善だ。たとえその過程で商売敵に不利益をもたらそうと、取引先を言いくるめようと、会社に利益をもたらすならそれは会社にとっての善だ。だから自分もある程度はその様に動く。自分の立ち位置と生活を守る為に。
 同じ様によく言われるのが、「兵士は兵士だから敵を殺せる」という奴で、「最初から敵を殺せる気質を持った人間が兵士になるのではない」という事だ。敵が撃って来るから、撃ち返さなければ自分が殺されるからという以上に、兵士は兵士という立場に立っているから敵を撃てるのだという考え方だ。それが仕事だから。自分の立ち位置、自分が所属する集団の中ではそれが善だから。こう考えると善悪という奴の境界線は酷く脆いという事に気付く。

 だから自分は、本作に登場する『ワーストエンド・シリーズ』の読み手よりも、むしろその作者の方に興味を抱く。彼(或いは彼女)は何を思って物語がバッドエンドを迎える様に……物語の悪役が勝つ様に、様々な物語を改変して行ったのか。物語の結末を裏返して行った理由。悪役を勝者に変えて行った意図。案外それは、自分達が共感できる様な動機なのかもしれない。

 最後、本当に蛇足。
 著者のカミツキレイニー氏の名前を見た時に『上月』でも『神月』でもなく、真っ先に『噛み付き』という文字が思い浮かんでしまったのだけれど、何故だろう。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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