世界から「それ」が消えてしまう前に・川村元気『世界から猫が消えたなら』

 

 「本当に大切なものはそれを失ってから気付く」という事をよく耳にする。それが身近にある時には、そこにあるのが当たり前のものとして気にも留めていなかったのに、ある時何かのきっかけでそれが失われる事によって、初めてそのものの本当の価値、本当の意味に気付かされるという事。自分の人生を振り返ってみれば、誰でも思い当たる事があるのではないだろうか。特に人間関係では、そんな別れを誰もが経験するのだろうと思う。
 家族、親友、或いは恋人。その人が身近にいてくれた時には意識していなかったのに、別れによって、一緒に過ごした時間がいかに大切だったのか、その人が自分にとっていかに大切な存在だったのかを思い知らされる。それはきっと誰もが経験する事で、だからこそ本作は読者の心を打つ。

 主人公であり、郵便配達員である『僕』は30歳にして脳腫瘍の末期であると宣告される。余命は長くて半年。ともすれば一週間後すら怪しいと。そんな主人公の前に悪魔が現れ、『実は……明日あなたは死にます』と死の宣告をする。しかし同時にこの悪魔は主人公の寿命を延ばす為の取引を持ちかけるのだ。

 『この世界からひとつだけ何かを消す。その代わりにあなたは1日の命を得ることができるんです』

 自分の寿命を一日延ばす代わりに、世界からひとつだけ何かを消す。主人公はその選択を迫られる事になる。確かにこの世界にはあってもなくても構わない様なものが溢れているし、むしろない方が皆の為になる様なものだってあるかもしれない。そんなものを片っ端から消して行けば、何日でも死を先送りに出来る筈だと主人公は考える。しかしこの選択には悪魔が定めたルールがある。それは『世界から何を消すかは悪魔が決める』というものだ。

 悪魔が提示する選択。世界からそれを消すか、自分が死ぬ事を受け入れるか。一体自分ならどうするだろう。自分の選択一つで世界から消えてしまうもの。それが何であれば世界から消す事を受け入れ、何であれば自分が死ぬ事を選ぶのだろう。『世界から猫が消えたなら』という題名からも、色々な事を考えさせられる。

 自分が一日生き延びる為に、世界から何かを消してしまう選択をするのだとして、その何かが本当に失われたらこの世界はどうなってしまうのか。自分はどうなってしまうのか。そこまでして自分の寿命を一日延ばす事に、一体どれほどの意味が、価値があるのだろうか。
 「それ」が世界から消える事で、初めてそのものの大切さに気付く。きっとこの世界はそんなもので溢れているのだろう。時にはこの世界の全てがあってもなくても構わないもので出来ている様に思える事もあるけれど、きっとどんな些細なものでも「それ」が消えてしまった時に自分達は気付くのだ。「ああ、これは大切なものだったんだ」と。

 自分は、そして自分達はなぜそれがまだこの世界にある間に、そのものの大切さに気付く事が出来ないのだろうか。なぜ自分達は大切な人と別れた後で、その人が自分にとってかけがえのない人だったと気付くのだろうか。なぜ、自分達はいつも手遅れなのだろうか。その事が本当に切なく、悲しい。
 本作はそんな世界の中で生きる自分達に、「~が世界から消えたなら」と問い掛ける。自分にとって本当に大切なものは何なのかと考える事は難しい。だからその代わりに「もしもそれが世界から消えたなら」と考えてみよう、と。大切な何かに気付ける様に。今度は手遅れにならない様に。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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