大人と子供の狭間で『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

 今回はネタバレありの感想を。一応、事前に警告は入れます。

 さて、これまで自分は他のエヴァファンと同じ様に、作品を何度も観て、物語について仲間と語り合ってきた。エヴァがどんな作品だとか、登場人物達がどんな存在だとか、語るテーマは尽きなかった。でも今振り返れば、それは「自分にとって」エヴァがどんな作品であり、「自分にとって」登場人物達がどんな存在かという事だったのだろうと思う。作品について語っているつもりが、いつの間にか自分語りになってしまっている。自分にとってエヴァとはそんな不思議な作品だと言える。

 もちろん、このブログに本の感想を書く事なども突き詰めていけば自分語りなのだろう。それを読んだ自分がどう感じ、どんな感想を抱いたかという事を記録する行為なのだから。しかしエヴァという作品について語る事は、他の作品について語る以上に「生々しい」自分語りを要求される行為だと思う。

 本作については鑑賞後の感想が賛否両論ある様だけれど、それも結局は映画を観た人がそれぞれどんな立場で作品について語るのかという部分に起因している気がしてならない。本作を観てシンジに最も感情移入する人と、アスカに最も感情移入する人とでは抱く感想も全く違ったものになるだろうし、シンジを取り巻く大人達の立場でものを考える人もいるだろう。自分達はそれぞれの立場から本作を観た時に感じたものを言葉にしている訳で、どれが正解だとか、どれが間違っているだとかは一概には言えない。だからこれから自分が書く事は、かつて10代後半でエヴァにはまり、今30代半ばになった男が、震災後の福島から発信しているものだという事を最初にお断りしておく。

 以下、完全にネタバレを含むので未見の方はここで退避願います。なお、かなりの長文です。







 ……さて、本作を観てまずは驚いたの一言。事前に地上波で公開された『冒頭6分38秒』を観た上で劇場に行ったのだけれど、その後の展開で更に驚かされる。14年という年月の経過。ニアサードインパクトの発生。サルベージされたシンジと行方不明の綾波。書き出していけばきりがないけれど、一番評価が分かれているのは前作『破』のラストでシンジが見せた頑張りが報われていない様に思える、という部分だろうと思う。

 使徒を倒す為に、皆を守る為に、綾波を救い出す為に、シンジは自分の意思で初号機に乗り、戦った。そして最後には使徒を倒し、綾波を救い出した。でも本作ではそのシンジの行いがニアサードインパクトのトリガーとなって地上を荒廃させたのみならず、救った筈の綾波もサルベージされないまま行方不明という、シンジを奈落に突き落とすかの様な展開が待っていた。周囲の大人達は皆一様にシンジに対して冷たい。恨まれ、突き放され、疎外されるシンジの姿は見ていて辛いものがある。だからこれまでシンジに感情移入して映画を観てきた人達は「こんなのは酷すぎる」と思うに違いない。前作のラストで「行きなさい」とシンジの背中を押してくれたミサトまでがシンジに冷酷な態度を取っている(ように見える)事が更に救いの無さを強調している。だからシンジの立場で映画を観ている人は悲しみ、憤る。こんな筈じゃなかったのに、と。

 一方で、シンジを取り巻く大人達の立場でこの映画を観る人からすれば、シンジは自分がしでかした事の責任も取らずに逃避し、自分以外の誰かに必至に責任転嫁している駄目な奴に見える事だろう。渚カヲルにニアサードインパクト後の世界を見せられても「そんなつもりじゃなかったのに」「自分はただ綾波を助けたかっただけなのに」とばかりに頭を抱えるだけのシンジの姿は大人を苛立たせる。だからアスカは事ある毎に『ガキシンジ』とシンジを罵倒する。自分はもう大人になってしまったから。たとえ体は14歳のままでも。

 大人は常に結果責任を問われる。それは映画の中であっても変わらない。「こんな筈じゃなかった」とか「そんなつもりはなかった」とか「想定外だった」とか、そんな事は全て言い訳として処理されるのが大人の社会だ。行動した結果がどうなったかという事だけが全てで、その結果に至るまでの過程においてどれだけ努力したか、どれだけ真面目にやったかなどとという事は一顧だにされない。結果を出せない人間は不要だと切り捨てられるし、失敗すれば責任を取らされる。子供から見れば酷い世界かも知れないが、大人として生きるという事はその前提の中で生きて行くという事だ。だから本作を大人としての立場で観るのか、シンジと同じ様に少年の立場で観るのかによって受け取る印象は大きく変わってくる。

 自分はといえば、どちらの気持ちも分かる……というよりも、分かる様になってしまった、と言った方が妥当かもしれない。それは震災のせいでもあるし、原発事故のせいでもある。

 震災と原発事故が起きる前は、この福島に原発がある事について疑問に思う事は一切なかった。原発の危険性を理解していたかと言われれば、知識として頭の片隅にチェルノブイリ原発事故があったものの、まさか自分の住む県で同種の事故が発生するかもしれないなどとは考えた事も無かった。だから県内に原発が作られるという時に賛成した人も、原発で働く社員達も同じだっただろうと想像する事が出来る。自分はその時まだ産まれてさえいなかったから断言する事は出来ないが、福島に原発を作ろうとした人々も、別に厄介な代物を押し付けてやろうという悪意からそうしたのではなく、地域振興の手助けになればという善意からそうしたのだろうと思う。100パーセント善意だったかどうかは置くとしても、悪意だけではなかった筈だ。また原発を受け入れた地元にしても、「原発が出来れば新たな雇用が生まれ、税収も増える。ならば地元をより豊かにする為に、東京で電気を必要としている人々の為に、この原発を引き受けよう」という善意からそうしたに違いない。原発を作った技術者達だって、自分達の仕事がこの国の産業界の発展に役立って行く事を信じ、誇りを持っていた筈だ。つまり各々が、自分の選択は正しいはずだと信じ、善意に基づいて行動を起こした訳だ。それは決して責められる事ではない。

 ただ、結果として原発事故は起きた。

 「こんな筈じゃなかった」「想定外だった」
 そんな言葉を並べられて納得できるのか。出来はしまい。たとえそこに悪意が無くても、むしろ善意から始まった事だとしても、誰かが責任を取らなければならない。大人として、周囲から責められる立場にいなければならない。自分達の選択が間違っていた(かもしれない)事の責任を取らなければならない。それは自分達が既に少年ではなく、大人だからだ。自分がシンジにだけ感情移入して、ミサト達の態度を冷淡だと責める事が出来ない理由はここにある。

 ただ一方で、人類の命運を左右する様な選択を14歳の少年に強いる社会はどこか狂っていると考える事も出来る。シンジの周囲にいる大人達は、彼に「大人として責任を取る事」を要求している。彼が手にした力相応の責任を背負えと言っている訳だ。しかし一方で彼はまだ14歳の少年であり、迷う事もあれば選択を間違う事もある。14歳という年齢は、大人と同じ、或いは大人以上の責任を背負うには若すぎる。

 大人ではない。しかし、ただの子供でもない。

 14歳という年齢は大人と子供の境界線上にある。大人達の世界を動かしている仕組みや理屈についても自分なりに理解できる様になってくる年頃だが、一方ではやはりまだ子供のままであって、大人と同列にはなれない。そんなシンジに対して社会は、そして世界は「少年である事を卒業して大人になれ」と要求する。大人がそうしている様に、自分のしてきた事、これからしようとする事に結果責任を負えと要求する。こう考えるとエヴァという作品は結局「碇シンジという少年が大人になれるのかどうか。自分を変えられるのかどうか」ひいては「碇シンジに感情移入している自分達が大人になれるのかどうか。自分を変えられるのかどうか」という事をテーマにしている様に思えてくる。そしてそう問われている自分はといえば、まだどこか大人になりきれない部分を引きずって今日を生きている。

 物語の結末はまだ先にあって、ここからは見えない。でも自分は、最後には救いがあって欲しいと願う。今を生きている自分達のこれからもまた、そうであって欲しいと願うから。

テーマ : ヱヴァンゲリヲン新劇場版
ジャンル : 映画

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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