日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』

 

 まず、ライトノベルを読まない人は著者名が読めないと思う。『日日日』と書いて『あきら』って、これ、どういう当て字なんだろうかと思って今Wikipediaを見たら、『本名である「輝(あきら)」の字を同音の漢字「晶」に置き換えて「日」3つに崩して表記したもの』だそうだ。これは余談だけど。

 何かが起きるのではないか、起きて欲しいという願いを無視して、1999年は過ぎ去った。まあノストラダムスの大予言というのは五島勉の創作というか、日本でしか流行しなかった終末論だったみたいだけれど、世紀末に何かが起きるのではないかという思いは各地でもそれなりにあったかもしれない。もちろん現実には何事もなく、沢山あった『終末もの』と言われるジャンルもかつてのような勢いを失った感がある。
 それでも時折『人類滅亡ネタ』系の作品が世に出て来る所が『皆何だかんだ言って滅亡とか終末が好きなんじゃね?』という感じがしてちょっと可笑しい。まあ白状すると自分も大好物だけど。今だとニコラス・ケイジが主演してる映画『ノウイング』とかもそれ系だ。あれはどっちかというとディザスタームービーとかパニック映画の系譜かもしれないけれど。

 日常生活だと当然の事として流してしまっているものや、先送りにしている命題、保留している態度、思考停止に陥っている現状、そういったものに『終末』というタイムリミットが設けられる事で見えてくるものがある。普段取るに足らないとして置き去りにしていたものに光が当たり、輝いて見える。だから人間は終末モノが好きなのかもしれないと思う。

 現実には何も起きる事無く過ぎ去った時計の針を巻き戻し、本作『ビスケット・フランケンシュタイン』は世紀末に発生した奇病が少しずつ社会を侵食し始めている1999年から、終末への助走を開始する。
 何故か18歳以下の少女を狙い撃ちにするかの様に発生する奇病。細胞が癌化し、体の各部位が未知の物質に置換されて行くというその病に治療法は無く、生命維持に必要な臓器等まで病状が進行した人間は死に至る。
 だが、変質した細胞それ自体は以前と同じ機能を保っている。患者が死んでしまうのはその変質が段階的である為に、未だ正常な細胞との間で機能障害が起きるからだ。ならば、変異した各部位を継ぎ接ぎして全身が新細胞に置換されたヒトガタを生み出したら?

 こうして生まれたフランケンシュタインの少女『ビスケット』と共に、読者は終末へと加速する。その疾走感が素晴らしい。自分はこういう終末モノに目が無い人間なので、特に楽しめたのかもしれないけれど、個人的嗜好を抜きにしても近年稀に見る作品だと思う。例えるなら遠藤浩輝の漫画『EDEN』の冒頭で描かれた終末像を更に加速させた感じだろうか。

 村上龍の『すべての男は消耗品である。』は、そのタイトルだけが一人歩きしてしまっていて、『男ってなんて弱っちい生き物なのか』的な意味で使われる事が多いと思うけれど、本作でも『何故病は少女から発生したのか』『何故ビスケットは少女なのか』と考えつつ読み進めて行くと、多分男は打ちのめされるし、改めて男性は女性に敵わない生き物なんじゃないのかと思ってしまう。男性である自分としては異議申し立ての一つもしてみたい所だけれど、勝ち目はあまり無いだろうなあ。

 

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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