その正しさを疑え・柳田狐狗狸『エーコと【トオル】と部活の時間。』

 

 スクールカースト、という言葉がある。正直あまり好きな言葉ではない。端的に言うと生徒の間で自然発生する人気の度合いの差、またそれによる生徒間の序列をインドのカースト制度になぞらえた言葉だ。
 性格が明るい。言動が面白い。ルックスが良い。コミュニケーション能力に長け、場の空気が読める。協調性がある。そんなプラスの要素を数多く持っている生徒は人気者としてスクールカーストの上位に位置付けられる。それとは反対に、性格が内向的だったり、容姿が整っていなかったり、他人と上手く会話が出来なかったり、場の空気が読めずに周囲から浮いてしまったりする様なマイナス要素を数多く持っている生徒はスクールカーストの下位に位置付けられる。そしてスクールカーストの上下関係は時にイジメを助長する。またスクールカーストの序列は流動的なもので、それまで上位に属していた生徒が何らかのきっかけで下位に落とされ、イジメの標的となるケースもある。

 イジメを苦にした自殺、というニュースはこれまで何度も繰り返し報道されてきたし、その度に大人達は「この様な悲劇が二度と繰り返されない為に」と対策を練って来た筈だ。しかしその数々の試みは実を結ぶ事無く、イジメは無くならない。それは何故か。
 スクールカウンセラーを常駐させたり、イジメの電話相談窓口を開設したり、生徒にヒアリングを行ったり、教員に研修を受けさせたり、道徳教育に力を入れてみたり、大人が思い付く限りの手を尽くしても、学校からイジメが無くなった例はない。それは何故か。

 ……こういう事を考えていると何だか気持ちが沈んでくるのでこの程度にしておくが、自分が最近読んだ作品は奇しくもこのスクールカーストとイジメによって起こる事件を物語の軸として展開していた。そのひとつが本作『エーコと【トオル】と部活の時間。』であり、もうひとつが江波光則氏の『ストーンコールド』である。『ストーンコールド』についてはまた改めて感想を書く予定だ。この作品のドス黒さは本作の比ではない。(追記・『ストーンコールド』の感想はこちらに

 さて、小説でイジメを扱う時にもっとも書き易い物語は『復讐劇』だろう。当人には何の落ち度もないのにイジメられている人物がいて、それがふとしたきっかけで復讐を始める。或いはイジメられていた人の為に他の誰かが復讐を始める。因果応報。加害者達が被害者から復讐される事で彼等のイジメ行為は清算される。落とし前をつける、という奴だ。

 イジメの内容が酷いものであればある程、加害者への復讐は苛烈なものになる。酷い事をしていた奴がより酷い目に遭わされて悶え苦しむ姿を見ると、こう言っては何だが読者はスッキリする。爽快ですらある。イジメの理由が不当で陰湿であればある程、加害者を襲う復讐もまたそれと比例して残酷なものになる。それを読んで爽快感を得る行為は、はっきり言って悪趣味であり褒められた事でもないのだろうが、その一方でこの手の物語は以前から熱烈に支持されてきた。勧善懲悪、因果応報。時代劇では既に様式美の世界だ。必殺仕事人や遠山の金さん、水戸黄門に暴れん坊将軍。これらは皆悪どい事を企てた連中が最後には報いを受ける話だ。自分達は無意識に「酷い事をした奴は相応の報いを受けてしかるべきだ」という価値観を共有している。そして同時に、現実には加害者の全てが報いを受ける訳ではないと知っているから、せめて虚構の物語の中では全ての加害者が報いを受けるべきだと考える。それこそが正しいと考える。だから復讐劇は廃れない。
 だが、暴力的なイジメも、復讐の為の暴力も、冷静になって考えれば大差はない。しかしそこにイジメ行為をした側と、イジメられた側という背景が書き加えられる時、片方の暴力には復讐という名の正当性が与えられる。だがどちらの側に立つにせよ『自分こそが正しい』と信じて疑わない者ほど、歯止めを失って暴走して行くものだ。それはやがて、自分の身を滅ぼす事になる。そこで必要なのは恐らく、自分が信じる正しさを疑う事だ。イジメを行う側が信じている正しさ。復讐者が信じている正しさ。それが本当に正しいのかどうかを疑ってかかる事が、道を踏み外さずに生きて行く為の方法なのだろう。きっと。

 

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