すれ違ったままでも、続く日々を・柴村仁『ハイドラの告白』

 

“「きみはこう思うことはないか、言葉になんて意味はない、とね」
 ぼくは黙っていた。この男が何を言いたいのか、さっぱりわからなかったからだ。
 「好きだの嫌いだの、最初にそう言い出したのは誰なんだろうね。いまわれわれが話しているこのややこしいやり取りにしても、そんなシンプルな感情を、えらく遠まわしに表現しているにすぎないんじゃないか。美味しいとか、不快だとか、そういう原始的な感情を」
 ルツィアに長々と語った母親の話を思い出し、ぼくは全身をかきむしる恥の感情に襲われる。あれとて、結局はルツィアに「好きだ」と言っているにすぎなかったのではないだろうか。”

 伊藤計劃『虐殺器官』より


 『ハイドラの告白』は前作『プシュケの涙』の続編にあたる。前作で語られた物語の続きを生きる登場人物達。そして本作から新たにこの物語に加わった者達。それらが織り成す新たな物語は、決して優しくはない世界の中で人が生きて行く事のままならなさと、それでもなお生きて行こうとする人の姿を描いている。

 多くの場合、小説というのは登場人物達の人生のある一時期だけしか描かない。これは「まず作品があって登場人物達がいる」以上は当然の事だけれど、逆に、小説の登場人物達にも作中で描かれなかった「それ以前」と「その後」がある筈だと考える事も出来る。彼等を架空の人物ではなく、自分達と同じ様に生きる人間だと考えるのならば。

 ある物語が悲劇で終わる事はままある。例えばそれが大切な人との死別だったとしよう。多くの場合、登場人物達のその後が語られる事はない。しかし現実には、大切な人を失った後の世界に遺された者も、自分の想いを伝える相手を失った者も、その後の人生を生きて行かなければならない。悲劇をただ悲劇として、綺麗なままで置いておく事は出来ない。遺された者はその傷跡と喪失を抱えて、その後の世界を生きなければならないのだから。それは辛く、長い道程なのだろうけれど、そうして生きて行く者の姿を本作は描いている。

 そして、本作のもうひとつのテーマは『人が想いを伝える事の困難さ』なのではないかと思う。言葉にしてしまえば、本当にシンプルな感情がある。それは誰かを「好きだ」という気持ちだったり、その人と一緒にいたいとか、自分を見て欲しいという欲望だったりする。もちろんそれとは逆に、怒りや憎しみといった感情も自分達は抱えている。でももう子供ではない自分達は、それをストレートに相手にぶつける事が出来ない。

 自分達は、自らの感情を本当に回りくどいやり方でしか表現出来ない事がある。ただ「好きだ」と言えれば良かった筈の事を、そのままの気持ちを伝える術を持たないばかりに、別の行為で相手に伝えようとしてすれ違ったりするし、自分が本当に手に入れたいものを手に入れる事が出来なくて、その代償行為として不要なものばかりを抱え込んでしまったりする。それは時に無様で、滑稽で、救いがない。でもその不器用さも、伝えられないままの気持ちも自分の一部だし、今の自分の根幹を成すものだとも言える。だから、切り捨てる事も、捨ててしまう事も出来ない。

 本作を読み終えて、ふと自分の事を考える。自分だってそんなに器用に生きている訳ではない。むしろ不器用な方だろう。それでも日々は続いて行く。これからもきっと自分達はすれ違い続けるのだろう。正しく伝わらない想い、もう伝えられない想いは心の中に降り積もって行くのだろう。それを自覚してなお生きて行くという事。小説の様に色鮮やかな物語として切り取られる事もない、これからも続く自分達の日常を生きて行くという事。その事の意味を考えながら、眼を閉じた。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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