歩き続ける彼方に・柴村仁『セイジャの式日』

 

 『プシュケの涙』『ハイドラの告白』と続いた物語の完結編。
 中には、『プシュケの涙』だけ読んで「ああ、こういう話苦手なんだよな」と思った人もいるかもしれない。イジメの話でもあるし、ある種の報われなさや悲しみが内包された物語でもあるから。けれどそういう人にこそ、この3冊は続けて読んでもらいたいと思う。『セイジャの式日』の最後の2行を読んだ時に、その意味がわかってもらえるだろうと思うから。

 『プシュケの涙』から始まる物語を通して感じた事はいくつかある。その中でも強く意識させられたのは、やはり人が生きて行くという事の困難さだろう。
 どんなに辛く悲しい事があったとしても、人は生きている限りその先の人生を生きなければならない。それはよくある「辛さや悲しみを乗り越えて」という意味ではなく、たとえその悲しみが一生乗り越えられない類のものであったとしても、それを抱えたまま生き続けなければならない、という意味でだ。

 例えばそれは本作で描かれた様な、大切な人との死別かもしれない。死んでしまった人と、生きている自分。どんなに死者を大切に思ったとしても、生きている者はそこで立ち止まる事は出来ない。生きていれば心臓は勝手に動く。呼吸だって止める訳には行かない。どんなに悲しくても、生きる事に絶望していても、体は心を無視して空腹や疲労、睡眠欲を訴える。だから残された者はいつまでも死者の隣にはいられない。そこで立ち止まっている訳には行かない。過ぎ去る時間は生者と死者をどんどん遠ざけて行く。どんなに大切な記憶も、やがては薄れてしまう様に。それは優しい事でもあるし、残酷な事でもある。

 このブログでも何回か書いた記憶があるけれど、自分は「死んだ人の分まで生きる」という言葉が嫌いだ。そう思う事はいい。それを目標とする事は否定しない。けれど、その死んでしまった誰かの生は、別の誰かが背負ってしまえる程のものではないだろうと思うのだ。屁理屈に聞こえるかもしれないけれどね。

 死者にしてあげられる事なんて、本当は何もない。

 こんな事を書くと「死者を弔う事は出来るだろう」と言う人がいるかもしれない。しかし死者を弔うという行為は、死者の為ではなく、遺された生者の為にあると自分は思う。死者はもう何も語らない。言葉を交わす事も出来ない。だから遺された者達はいつも「あの人が生きている間に、もっと何かしてあげられたのではないか。もっと言葉を交わしておくべきだったのではないか」と後悔する。悔やんでも仕方がない事だとは思いつつ、死者に対して自分はもう何もしてあげられない、という事実の前に立ち尽くす。取り残されたかの様な孤独感に苛まれる。だから生者は死者を弔う。生者である自分達の心を慰める為に。自分の中に生じた喪失感を癒す為に。故人の死を無にしない為に。でも、それも全ては生者の側の都合なのだろう。本当は。そしてその事に、本当は皆気付いている。気付いていてもなお、自分達は生きて行かなければならない。責務、という言葉は使いたくないけれど。

 それらの事実を全て知った上で、全て飲み込んだ上で、自分達は生きている。これが物語なら、その別れを綺麗な悲劇として幕を閉じればいいだけの事なのかもしれない。でも物語の登場人物ではない自分達には、その先がある。悲しくても、辛くても、不恰好でも、不器用でも、無様でも、自分達はまだ歩き続けなければならない。生きている事が、まだ許されている限りは。そして本作は、その事実に対して可能な限り誠実であろうとした様に思う。『プシュケの涙』がそれ単体で終われなかった理由。『ハイドラの告白』『セイジャの式日』を必要とした理由。それは恐らく、悲劇を悲劇のまま綺麗に終わらせる事よりも、その先を生きて行く登場人物の生を描く為だったのだろうと思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon