作家性という武器・西尾維新『悲痛伝』

 

 前作『悲鳴伝』の感想はこちらに。
 しかしまさか『悲鳴伝』がシリーズ化するとは思っていなかった。前作はそれ単体で十分決着していたと思うのだけれど、主人公である空々空の『その後』が描かれる事になった経緯はどんなものだったのか、少し興味がある。何せ作者である西尾維新氏ですらあとがきの中で「続編の存在が作者にとって、こんなに意外である本もなかなかありませんけれど」と書いているくらいだ。

 本作『悲痛伝』は前作『悲鳴伝』の続編にあたる。しかし、『悲痛伝』の中では前作に対する説明はほとんど無い。他の作家が通常シリーズものを書く場合だと、前巻の内容についての大まかな説明などが本編に挿入されているものだと思うのだけれど、本作ではそれが意図的に省かれている様に思う。だから前作を読んだけれど、細かい内容について記憶が薄れている様な人(自分含む)は、本作を読む前に『悲鳴伝』を読み返しておく事が必要かもしれない。何せ前作が刊行されたのが約一年前だから。ただそうなると、あの分厚い前作を読み返した上で本作に挑む事になる訳で、結構骨が折れる。

 本作の帯に『英雄VS.魔法少女』とある通り、本作には魔法少女が登場する訳だが、同じく西尾氏の作品である『新本格魔法少女りすか』に登場する様な魔法少女というより、あくまでも『悲鳴伝』で示された世界観の延長線上に位置する魔法少女という気がした。『悲鳴伝』はある種の変身ヒーロー物だった訳だけれど、魔法少女ものもまたある意味では変身ヒーロー的な側面を持っている訳で、そういった部分でミックスし易い題材ではあるのかなと思う。まあ、作品のテーマが何であれ、物語がどんなものであれ、西尾氏があの文体で書けばそれは間違い無く西尾作品としか呼べない独特の雰囲気を醸し出す事になるのだろうとは思うけれど。

 個人的には、西尾氏がそうである様に、文体に特徴がある作家は結構好きだ。独特な文体を駆使する作家というと舞城王太郎氏や冲方丁氏の名前がすぐに思い浮かぶけれど、疾走感の強い舞城氏や、作品によって変幻自在に文体を変えて行く上に、既存の単語の意味をミックスして新たな言葉を生み出していく冲方氏の技巧と比較すると、西尾氏の文体はポップで読み易い印象を受ける。多分、同じ講談社ノベルスで、同じページ数で舞城氏と西尾氏の作品を並べたとすれば、圧倒的に西尾作品の方が読み易いものになっているだろう。これはもちろん、どちらがより優れているとか、正しいとかいう問題ではなく、作家性の違いだ。
 ここまで書いて、ちょっと思ったのは、昔話の様に誰でも知っていて、誰が書いても同じストーリーになる作品を何人かの作家が競作で書いたらそれぞれどんな作品が上がってくるだろうという事だ。『かぐや姫』とか『桃太郎』とか。個人的には舞城王太郎版『桃太郎』とか、一体どんな事になってしまうのか凄く興味がある。多分、産まれてから仲間を集めて鬼ヶ島へ攻め込むまでノンストップで走りっぱなしの桃太郎になるのだろうけれど、そんなファンキーな桃太郎を想像するとちょっと面白い。冲方氏は結構作品の内容に合わせて文体を変化させるので想像が付かないけれど。そして西尾維新版『桃太郎』ってどんなだろうと考えたところで、少しやってみる。成功はしないと思うけれど。


 昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいた。
 『昔々』とか『あるところに』とか、そもそも個人名すら明らかにしない等、随分と持って回った言い方をする様だが――これは何も彼等の暮らしに一般人から秘匿せねばならない様な秘密があった訳では、もちろんない。いや――なかった。少なくともこの時はまだ。
 彼等がその『秘密』を抱え込む事になるのは、まだ訪れるかどうかも定かではない先の話である。

 おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯に行く事にした。今にして思えば、この時山へしばかりに行ったのがおじいさんではなくおばあさんであったなら、川へ洗濯に行ったのがおばあさんではなくおじいさんであったなら、また違った展開があったのかもしれない。あったのだろう――しかし、結論から言えば山へしばかりに行ったのはおじいさんであり、川へ洗濯に行ったのはおばあさんであった。
 家事労働という仕事の総量を夫婦で分担するにあたって、各々が得意とする分野を担当する事は間違ってはいない。現実問題として、おばあさんの力で山から大量の薪を集め、それを背負って来る事は難しいだろうし、逆におじいさんが慣れない水仕事をする事もまた、効率が悪いという事なのだろう――判断としては正しい。しかしながら、おじいさんよりも体力が劣っていると思われていたおばあさんが、この後に川から家まで持ち帰る事になる『あるもの』について考えるならば、この前提は間違っていたと言わざるを得ない。
 そう――間違っていたのだ。
 一般的に女性は男性よりも体力面で劣るかの様に言われがちではあるが――少なくともこのおばあさんはおじいさんの助けを借りずとも、川から自力で『あるもの』を回収し、持ち帰るだけの体力を有していた。この時点で、その事におじいさんが気付いていたのかどうかは定かではないし、おばあさんが、『能ある鷹は爪を隠す』の言葉通り、自らの能力を隠していたのかどうかもわからないが、結果としてこの後、おばあさんは『あるもの』の回収に成功する事になる。今まさに川上からドンブラコ、ドンブラコと流れて来る『それ』は――。
「桃……なのかしら」
 これまで見た事もない様な大きさであるとはいえ、どう見ても桃の様な、桃であろう、桃にしか見えない『それ』を前にして、その得体の知れない『物体』を前にして――おばあさんは既にそれを持ち帰ろうと決意していた。何の為かと言えばそれはもちろん『食べる』為であり、自分が『食べる』のみならず、おじいさんにも『食べさせる』為である。夫婦として、ある種の運命共同体として、お互いに利益を分け合う事は理に適っていると言えなくもないが、川上から流れて来た得体の知れない『物体』を何の躊躇もなく回収し、あまつさえ食用にしようと考える事自体、このおばあさんが只者ではない事の証左だと言える。一見は大きな桃の様に見える得体の知れない物体――おばあさんが通常の感性の持ち主だったならば、それを怖いとか、そんな風に思っていたかもしれない。
 そう思わないのがおばあさん。
 おじいさんにも劣らぬ力を持ち、この後『桃から人間の子供が生まれる』という怪奇現象に遭遇しても一切動ずる事がない、おばあさんなのだが。


 ――うん、ごめん。やっぱり失敗した。
 それっぽくする為に一部の言い回しは『悲痛伝』から引用してみたのだけれど、まあ当然そんな簡単には似ないわな。自分文才無いし。でも、漫画の同人誌だと『原作に絵を似せる』という事が結構あると思うのだけれど、同人小説というジャンルがあるとして、『原作に文体を似せる』という事を意識して書く人がいるのかどうかちょっと興味が湧く。普通は世界観とキャラクターを借りて、後は自分の文体で作品を書くものだろうと思うのだけれど、文体まで原作を模倣した上で、同人作家が思い描く様な物語を展開する事が可能なのかという部分で。

 何だか話が脱線したが、本作『悲痛伝』は間違い無く西尾維新氏にしか書けない作品になっていると思う。西尾氏の特徴である掛け合いの妙や、独特のネーミングセンス、故意にちょっと持って回った様な言い回しになる地の文などの細部もさることながら、物語の展開の仕方に至るまでが実に西尾作品らしい。こういう一貫性が作家性、という奴なのかもしれないなと思う。自分が書くものを読者に『読ませる』力というか。それは間違い無く西尾氏が持つ強力な武器だ。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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