伊藤計劃『ハーモニー』

 

 作者である伊藤計劃氏は今年3月、34歳の若さで亡くなられたそうだ。癌だった。
 34歳といえば自分とそう変わらない年齢で、自分の方が若干年下になる。この若さで亡くなられてしまった事は残念でならない。しかし、氏と交流を持たれていた方のブログで『彼が「『冥福を祈る』という言葉が嫌い」だと言っていたことを思い出す。その替わりに「ありがとう」と言うことにしていると。』という一文を読んだ。

 <関連項目>
  Flying to Wake Island『伊藤計劃『ハーモニー』小論 』

 ならば自分はなんと言えばいいのだろう。氏に対して『ありがとう』という言葉を贈るには、自分は余りにも遠い場所に立っている。

 作者と読者の距離は遠い。読者は友人ではない。知人でもない。たまたま書店で手に取った、或いはネットで注文した本を読んだだけの人間だ。そして自分も、氏の訃報をたまたまネットで知っただけの一読者でしかない。でも『ハーモニー』を読んだ時、そんな繋がりの薄い関係でありながら、その関係性の薄さに反して物凄いものを一方的に贈られてしまった様な衝撃があった事は確かだ。今となってはどうやってその事に報いたらいいのか途方に暮れる程に。

 『ハーモニー』は傑作だと思う。

 その評価に、作者の闘病生活や急逝といった事情は何ら関係が無い。読者というのは残酷かつ現金な生き物で、作品が面白いかどうか、自分にとって価値があったか否かでしか評価を下さない。だからこそ自分が傑作と認めた作品に対しては誠実であろうとするし、そうでなければならない。それが読者の矜持だ。

 もう一度言う。『ハーモニー』は傑作だ。


 少し前、漫画『プラネテス』の感想の中で以下の様な文を書いた。

 『・・・人間はよりよく生きる為に社会を形成し、各々役割分担をして支え合って生きるという事を覚えた。けれど社会構造が複雑化し、それが簡単に動かせない強固な枠組みになってくると、人間の為に機能する事が目的だった社会構造が変質し、『社会構造を維持する為に人間が犠牲を強いられる』様になる。』

 『ハーモニー』の世界では人間一人一人が社会的、公共的リソースである。個人の健康管理までもが公共的な義務とされ、酒や煙草で『個人が勝手に不健康になる自由』すらない社会。しかも厳格な法と罰則で縛った結果としてではなく、各人の共通認識による『常識』から生じた緩やかな縛りがそれをもたらした社会。もちろんこれは虚構だが、現実にもそれに近い空気は醸成されつつある。

 例えば少子高齢化の日本では、『結婚もせず子供も設けない生き方』に対する非難が徐々に高まっている。それも、直接的に他人から非難されるというより、『何となくそれが悪い事であるかの様な空気』に後押しされる様な形で。また肥満はメタボリックシンドロームの名の下に職場での健康診断にも盛り込まれ、肥満体であることは立派なマイナス評価として扱われる様になった。少子化対策にしても、予防医療の推進にしても、それは個人の健康を維持するためというより病によって社会的リソースである個人の健康が損なわれ、『社会全体の健康』が害される事を防ぐ目的の方が大きい様に思う。

 しかし個人の存在意義が社会的、公共的リソースとしての役割を果たす事にのみ求められる社会では、個々人の自意識や感情は一切考慮されない。それらはむしろ社会構造との摩擦を生じ、『生き苦しさ』を生み出すだけのマイナス要素でしかない。

 実際多くの人が個人の自意識と社会に求められるリソースとしての人間像との齟齬に苦しんでいる。自分もそうだし、皆も感じた事がある筈だ。では現実を生きる自分達はどうしたらいいのか。何がこの現状を救う手立てなのか。その問題の核に『ハーモニー』は突き刺さる。それも最も究極的な方法で。

 現実にそれが可能かといえば現時点では否だ。けれど将来的には判らない。もしかすると社会は本作が示した様な方向性を目指していく事になるのかもしれない。その時、『わたし』は、『わたし』達はどうなっているだろう。それを氏はどう考えていただろう。

 だから自分は、この貪欲で残酷で現金な一読者であるところの自分は、これ以上氏の新作が読めなくなった事が残念でならない。彼から遠い場所に立っている自分の、一読者としての偽らざる気持ちだ。

  

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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