遠藤浩輝『オールラウンダー廻』

 昨日はTVでK-1を見ていた。自分は運動が得意な方ではない。まして格闘技経験なんてない。でも何故か昔から格闘技観戦は好きだった。特にプロレスとか。

 格闘技は喧嘩とは違う。そこにはルールがあり、技術があり、選手の努力がある。そして両選手が死力を尽くして戦い、結果として勝者と敗者が生まれる。

 最近、勝ち組、負け組といった言葉をよく耳にする。でもそれは大抵が『現在自分の置かれている境遇』を勝ち組、負け組のどちらかに分類してみただけの事だ。その分類で言えば自分も決して勝ち組ではないと思うが、果たしてそれは『各々がきちんと戦った結果としての勝敗』なんだろうか。

 ぶっちゃけた話、大人になると痛感する。『戦わずに暮らす方が間違いなく楽だ』という事を。むしろ『あえて戦わずに負ける事を選んだ結果』が今言われている負け組なんじゃないのか。戦う事は時に痛みや困難を伴うし、勝とうと思うのなら努力しなければならない。ただ、戦う事自体を放棄してしまえば、戦う為の努力も痛みも引き受けずに済む。
 そうやって自分にとって『まあ許せる範囲の負け』のレベル、不戦敗のレベルを確保しておいて、口では『俺って負け組だよな』とか言ってみたりする。それも自嘲気味に。自分でもよくやるし、その度に嫌になるけど。

 現実で戦う事が辛いのは、多くのスポーツや格闘技と違って明確なルールが無いからかもしれない。格闘技には戦う上でのルールがある。例えばボクシングで蹴りを使えば反則だし、選手は体重別に階級分けされているから極端な体格差がある相手と戦う様な事も無い。
 しかし現実の戦いはもっとえげつない。生存競争に正々堂々とか、尋常な勝負等と言ってはいられないからだ。一対一で戦う事が出来る機会すらなかなかないし、逆に個人が集団から袋叩きにされる様な事もある。戦うべき相手が見えないうちに不意打ちをされる事もあるだろう。
 自分が格闘技を好んで見るのは、現実の戦いが抱えるえげつなさに嫌気が差しているからかもしれないと思う事もある。

 遠藤浩輝は本作で『修斗』という実在の総合格闘技を描く。格闘技漫画の多くは他のバトル漫画と同じで、物語の進行と同時に登場人物達の強さがインフレを起こし、まるでファンタジーの様な超人バトルになって行くものが殆どだ。その中にあって、本作は等身大の格闘技を真面目に描いている。だからこそリングから離れた人間ドラマにも説得力が生まれる。

 主人公である廻と喬は小学生時代友人だった。そして高校生となった廻は修斗のリング上で7年ぶりに喬との再会を果たす。対戦相手として拳を交える二人はしかし、かつての友人関係を喪失していた。

 人間に与えられるもので平等なものは殆ど無いと思う。何も金銭的豊かさだけじゃなく、家庭環境等もそうだ。地方と都市部では生活環境も異なる。そうして違う人生を生きて来た人間同士が同じリング上に立って拳を交える時に、初めて平等に近いルールの中で戦う事が許される。それも皮肉な話だと思うが、本作で廻と喬を取り巻く環境も現実のそれと同じ様に平等ではない。
 そんな人間同士がリング上で戦う姿は、負け組である事を受け入れて生きている自分の様な人間には突き刺さる様に痛い。『お前本当に死ぬまで不戦敗でいいのか』と言われている気になる。

 本作はまだ始まったばかりで、どこに向かって行くのかは今後の展開次第だと思う。それでも自分がこの作品に注目するのは、この作品と作者が常に『戦う』という事を志向しているからだと思う。

 戦って負ける事は仕方ない。ただ、自分が最後に胸を張って『戦った』と言えるのはいつの事だっただろうか。その事の方が問題として大きく、自分には痛い。

 

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Author:黒犬
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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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