物語が人を生かすなら・大樹連司『勇者と探偵のゲーム』

 

 人は物語を書く。しかしその人を生かしているのは、物語の方だ。

 人間には知性があり、心があり、想像力がある。それは他の生物よりも優れた点であると同時に、決定的な弱点でもあるのだろう。何故ならば、人はそれらを持つが故に「ただ生きて死ぬ」という事に耐えられないからだ。

 今こうして何事かを思っている自分の心も、死を迎えれば消えてしまう。無になってしまう。その事実を思う時、人は虚無感に襲われる。死は本来無意味だ。命が尽きる時、そこにそれ以上の意味は無い。人もまた他の生物と同じ様に生き、同じ様に死ぬ。そして無になる。そこにあった心も消えてなくなる。それは当たり前の事だけれど、人の心はその冷徹な事実に耐えられない。今ここにいる自分の意思が、心が、いつか意味もなく消えてしまうという事に耐えられないのだ。だから人はまず、自らの死に意味を求めた。死に意味があるのなら、そこに続く生にも意味があるのだと信じられるからだ。逆に言えば、もしも人の死に意味が無いのなら、そこに続く生にも意味は無い事になってしまう。かくして人間は意味を渇望し、自分達の心を守る為に膨大な時間と労力を費やして、その死と生を意味付けする為の戦いを始めた。それが『物語』だ。

 神話や宗教とは人の死を意味付けする為の物語の最たるものだ。体は死んだとしても、その意思は魂となって遺る。死後の世界や復活。輪廻転生や業。因果応報。そうした物語を想像し、創造する事で人は自らの心を守ろうとした。たとえ死を迎えたとしても、その死は物語の中に回収される死であって無意味ではないし、虚無でもない。だから自分達の死と生は決して無意味なものではないのだと。そしてまた、宗教と同じ様に生み出された数々の物語もまた、人の死=生を無意味なものにしない為に有効に機能し続けた。少なくとも、これまでは。

 世界や国家、人類全体というものを扱った大きな物語があり、個人の人生やそれを取り巻く周囲の人間関係の様な小さい物語がある。それらが世界から消えてなくなる事はない。物語は生み出され続ける。これまでも、これからも。それが人間にとって必要不可欠だから。でも、そんな物語に溢れた世界の中で、自分がどんな物語からも取り残されてしまったかの様な気持ちになる事はないだろうか。

 自分なんかいてもいなくても同じで、世界という物語は自分抜きでどこまでも勝手に流れて行く。物語の中で何の役も与えられない、何の影響力もない、無視された存在。自分を取り巻くどんな物語の中にも、自分の役を、自分の居場所を見出す事が出来ない。例えば今窓の外で勇者が悪と戦っていようが、探偵がどこか人里離れた洋館で起きた密室殺人の謎を解き明かしていようが、その物語と自分とは切り離されていて絶対に交わらない様に、この世界から、物語から無視されているかの様な、被害妄想じみた虚無感。

 そんな虚無感の中で生きて行こうとするなら、取るべき道は二つに一つだ。ひとつは、いつか物語が自分を選ぶ時が来るまで耐え続ける事だ。仮に「その時」がこの先一生訪れる事が無いのだとしても。そしてもうひとつは、自ら物語を語る側にまわる事だ。

 物語を語る事。或いは騙る事。

 それによって自分を取り巻くこの世界と、自らの死=生に意味を在らしめる事。あたかも自分こそが物語の主役であるかの様に、世界の中心に立つ存在であるかの様に、自分を騙し、この世界や社会という大きな物語を欺き、『物騙る』事によって自分の居場所を世界に穿つ事。

 ただ、ここでひとつ問題がある。仮に、物語を『騙る』自分自身が、その欺瞞に気付いてしまったとしたら? 自分を騙す為の物語から目覚めてしまったとしたら? 誰かの物語の登場人物になる事も、配役なき自分自身を抱えて耐え続ける事も、そして自分の為に物語る事にも失敗してしまったら、その先、人はどう生きればいい? いや、そんな他人事の様に語る事は止めよう。

 それら全てに失敗した上で、今ここにいる「ぼく」はどう生きればいい?

 その答えが記されているだろう物語に、僕はまだ出会えていない。
 
 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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