歩き続ける事=生き続けるという事を・新海誠『言の葉の庭』

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 ……行って来ました。劇場まで。

 自分が福島県在住だという事は主に原発問題について言及する時等に何度か書いたと思う。そして、福島では本作の劇場公開が無い。よって今日は宇都宮まで足を伸ばす事にした。
 劇場公開からブルーレイ等の一般販売まで間がない(というか、劇場では先行販売されているので実質劇場公開と同時リリースとも言える)作品なので、「まあ劇場に行かなくても自宅で観れば」と思いがちな作品だとは思う。でも自分はぜひとも本作を大きいスクリーンで観たいと思ったし、その判断は間違いではなかったと思う。もちろんソフト化されたものも買うけれど。

 小説にしろ漫画にしろ、アニメにしろ映画にしろ、ある作品に触れた時に、「ああ、自分はこの作家(或いは監督)の作品は、今後どんなものが発表されるとしても一生追い掛けて行く事になるだろうな」と思う時が稀にある。自分にとっては新海監督もその中の一人だ。『ほしのこえ』を観た時に、自分はそれを感じた。それは作品が面白かったからとか、登場人物に惹かれたからとか、作品のテーマに心打たれたからとか、そうした言葉で説明できる部分とはまた別に、上手くは言えないのだけれど、もっと感覚的な何かが原因になっているのだと思う。

 本作『言の葉の庭』を観て感じた事はいくつかある。まずは、新海作品について毎回言及される『背景の美しさ』について。本作もまた、何気ない日常の風景を本当に瑞々しく描いてみせる。

 自分は新海作品を観た後でいつも思う事がある。それは自分が生きているこの現実の方が、絵という平面で表現される作品世界よりも平坦で、色褪せたものに見えるという事だ。
 現実には、そんな事はあり得ない。現実であるこの世界の方が、そこにある色彩にしても、密度にしても、アニメで表現される世界より遥かに情報量が多い筈だ。しかし自分から見た現実はもっと無味乾燥としていて、平坦なものに思える。
 もちろん、映像作品とはただ現実を写したものではなく、本作で言えばそこに美しさや瑞々しさが感じられる様に脚色されたものだという事実はある。でも自分はそれ以上にこう考える。自分が見ているこの現実が、平坦で色褪せた、無味乾燥なものに思えるとするなら、それは自分の側にその原因があるのだと。

 世界は、現実は、それを見る人によっては本作と同じ様な美しさを、瑞々しさを持ったものなのかもしれない。何気ない日常の風景も、雨に濡れる街角も、公園の緑も、その美しさに気付ける感性を開いた人にとっては輝いて見えているのかもしれない。現に、ありふれた日常を、こんなにも色鮮やかな世界として描き出す作品があるのだから。もしも自分の見る世界がそこからかけ離れているのだとすれば、それは自分がそこにある光から目を逸らしているからだ。感性を閉ざして生きているからだ。それはきっと自分が大人になってから身に付けた悪癖であり処世術のひとつなのだろう。感性を閉ざして、鈍感でいる方が世の中では生き易いのだと勘違いしている、愚かな自分が身に付けた、本当は唾棄すべき処世術だ。そんな、自分自身でかけた灰色のフィルターを外して世界を見る事が出来たなら、そこには自分が現実だと思い込もうとしている世界よりも、もっと色彩に溢れた世界が見えるのかもしれない。

 そして本作が気付かせてくれる事がもうひとつある。それは大人であれ、子どもであれ、互いに向き合う時はひとりの人間であるという事だ。

 大人は子どもとは違う。子どももまた大人とは違う。けれど同じ人間として、両者は向き合えるという事。そして、向き合うしかないのだという事。それは当たり前の事の様だけれど、自分達はそれを忘れてしまう事がある。大人は大人の理屈でしか世界と向き合おうとせずに、自分がかつて子どもであった事を棚上げして、子どもの持つ感性を青臭い世間知らずの妄言だと吐き捨てる。また子どもはその潔癖さで、大人の生きる現実を、打算と妥協にまみれた汚濁として切り捨てる。そんな事はよくある現実で、ここで今更書く程の事でもない。では、もしもこの現実がその様なものであるとするなら、人はいつまでが子どもで、いつから大人になるのだろうか。両者を分けるその線は、そんなに明確に引かれているものなのだろうか。自分は思う。否だと。

 何も自分がまともな大人になる事に失敗した人間だからそう思うのではない。大人も子どもも、置かれている立ち位置が違うだけで、従わなければならない決まりや自分を縛る環境が違うだけで、本当は同じ様に「生きる事」という共通の課題を、重荷を背負ったひとつの人格なのだろうと思うのだ。当然、大人は大人の立場で話し、生きる。子どもは子どもの目線から見える世界の中で大人と相対する事になる。けれどどちらも、本当は同じ道を歩いている、対等な人格なのだ。どちらも同じ様に道に迷い、自分の居場所を探す事もある、対等な人格。だから、時にお互いがお互いの居場所になる事があっても良いのだと思う。何も恋愛感情を経て、彼氏彼女の関係になるという事だけが正解な訳ではないし、ハッピーエンドな訳でもない。お互いがお互いを必要として、互いの事を分かり合おうとして、そこで何かが通じ合う事が出来たなら。きっとその事を支えにして、人はどこまでも歩いて行けるのだと思う。どんなに遠い場所へも、歩いて行ける様になるのだと思う。

 本作のテーマもまた、歩く事=生きる事に集約されている様に思う。歩き続ける事=生き続ける事。その為に人が何を必要とし、求めて行くのか。その事に対する気付きを、本作は与えてくれる。そんな気がする。

 

テーマ : 映画感想
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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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