働くという事の意味を・紅玉いづき『サエズリ図書館のワルツさん 2』

 

 1巻の感想はこちらに。今回は章題に『サエズリ図書館のチドリさん』とある様に、大学4年生の千鳥さんが物語の中心になる。就職活動で思う様に成果が出せず、卒業後の進路が決まらない彼女は、サエズリ図書館のボランティアスタッフとして働き始める。「働いてみたいと思ったから」「本の価値を知りたいから」千鳥さんが口にする言葉に嘘はない。けれど、それは本当の理由でもない。彼女が本当にやりたい仕事。進みたいと思っている道。それと向き合う為に、彼女は歩き出す。

 極論すれば働くという事は生きるという事だ。何も「働かない奴には生きる資格が無い」という意味で言っている訳ではない。けれど30代も既に半ばのオッサンから言わせてもらえば、生きて行く上で、「働く」という事が占めている割合は本当に多いし、重い。単純に労働時間という意味でもそうだし、働いて収入を得なければ食うに困るという意味でもそうだけれど、それよりも自分達は働く事で他者との繋がりを持ち、自分が受け持つ役目を果たす事で、皆が協力してこの社会を回しているという事実がある。
 その「皆」の中には望んだ仕事に就き、夢を叶える人もいる。夢破れてから辿り着いた場所で、何とか踏ん張っている人もいる。人が羨む様な仕事に就く人もいれば、誰もが避けたがる様な大変な仕事を地道に続ける人もいる。皆が平等ではないかもしれない。そこには経済格差を始めとして、様々な格差があるのだろう。けれど皆同じ様に、様々な想いを胸に働いている。そして、その中には当然、今ここにいる自分自身も含まれる。

 働く事が生きる事なのだとすれば、仕事について考える事は自分の生き方を考えるという事と同義だろう。仕事とどう向き合うかという事が、自分とどう向き合うかという事にも繋がる様に。そして本はきっと、そうした悩みに『効く』のだろうと思う。

“人間である以上、死ぬときはかならず、あとになにかをのこしておくべきだ。わしの祖父が、そういっておった。子供をひとり、本を一冊、絵を一枚、家を一軒、築いた塀をひとつ、あるいはまた、こしらえた靴を一足。それでなければ、自分の手で丹精した庭園、なんでもよろしい。なにかの意味で、自分の手の触れたものをのこしておかなければならぬ。それによって、たとえ死んでも、たましいが行き場に迷うことはない。おまえの植えた木なり花なりが、他人の眼に触れることは、おまえがそこに存在することだ。つくりあげたものがなんであろうと、それは問題でない。おまえの手がくわわる以前と、おまえが手をひいたあととをくらべて、なにかおまえを思いださせるだけのものがのこっておれば、それでいいのだ。”

 ――レイ・ブラッドベリ『華氏451度』より――

 本著と同時期に読んでいたレイ・ブラッドベリの『華氏451度』にも上の様な言葉があり、はっとさせられた。本を守る人々の物語と、本を焼く焚書官の物語がこんな形でリンクするというのも不思議に思うのだけれどね。

 昔も今も、仕事をしていると時々虚しくなる事がある。結局自分がやっている仕事というのは、自分でなければ出来ないという様な、高度な仕事ではない。自分の代わりはいくらでもいるだろう。今はたまたま自分がその仕事を与えられているというだけだ。そして何かを作っている訳でもない自分の仕事では、後に何が残るという事もない。毎日何とか仕事をこなしてはいるけれど、それが本当に誰かの役に立っているのかどうかは実感が持てない。それでも毎日何とか働いているけれど、それをちゃんと生きていると言って良いのだろうか。そんな風に思う事があるのだ。しかしそれでも、日々は続く。

 働く中で迷いがあって、悩みもあって、失敗して自信を失う事も数知れず、このままで良いのだろうかと思いもする。でも、それでも何とか日々働くのは、日々生きているのは、きっとたましいが行き場に迷わない様にと願っているからなのだろう。仮に自分が死んだとしても、この世界のどこかに、ほんの僅かでもいいから自分がいた痕跡を遺したい。ただ消えたくない。そんな自己中心的な願い。それが叶うかどうかはまだわからないけれど、そんな些細な願いが――祈りが――きっと今の自分を生かし続けている。今はそう思う。

  

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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