サカサマな世界の中で・吉浦康裕『サカサマのパテマ』

 

 ようやく観て来た。公式サイトによると、地元福島での公開は年明けになってしまうとの事で、県外まで足を伸ばした次第。先にtoi8氏が手掛けた漫画版の単行本が出て、書店で見掛けていたのだけれど、映画と同じストーリーをなぞるものではないと知っていても、作品の構造上、世界設定の種明かしが絶対に含まれていそうだったので映画を見るまで買わずにいた。こちらも映画を観てからようやく買って来たのだけれど、結果から言うとやはり「映画が先」の方が良い様に思う。

 ネタバレしない範囲で感想を書く事が困難なので、以下は既に映画を観たという人限定で。







 ……さて、まず映画公式サイトのトップ画像にもなっている、「『サカサマ人』の少女・パテマと少年・エイジが抱き合っている」シーンと、そこに添えられた『手を離したら、彼女は空に落ちていく。』というキャッチコピーのインパクトが凄いなと。「重力の向きがサカサマになった世界に住んでいる男女が出会う物語ってどんなものなんだろう」と色々想像させる力がある。

 アニメの武器として、「現実問題を極端化する事で、問題の本質を際立たせる事が出来る」というものがあると思う。吉浦康裕監督は、前作『イヴの時間』の中で「アンドロイドと人間」というボーダーを設定する事で、感情を持つ者としての両者の関係性や、人間を人間たらしめているものとは何かという問いを描いてみせた訳だけれど、『サカサマのパテマ』の中で描かれるのもまた、「異なる価値観や世界観を信じる者同士は分かり合えるのか」という現実問題についてだ。

 異なる国、異なる人種、異なる信仰、過去の歴史。そういったものに縛られる自分達は、つい「自分達の方が正しい」という価値観で生きてしまう。そして、同じ価値観を共有出来ない相手を敵視してしまう。それ自体は仕方がない事だろう。誰だって、自分の方が間違っているなんて思いながら生きたくはない。「自分の立っている場所の正しさを疑わないからこそ、人は生きて行ける」と言い換えてもいいけれど、その「自分が信じる正しさ」が本当に正しいのかどうかは、実は誰も保証してくれない。立場が変われば『サカサマ』になるのは自分の方だからだ。
 重力がサカサマになった世界で生きる男女が出会う、という物語は、こうした自分達が生きる現実が抱え込んでいる問題を映像の力で端的に示してくれる。そこにどんな困難があるか。そして自分達はどうすべきかを。

 以前、戦前と戦後の教育に携わった方の話を聴く機会があった。本作を観終わって真っ先に思い出したのはその時の事だった。
 日本は戦争に負けた。その事で、それまで正しいものとして子供達に教えていた事のいくつかは正しくないものとされた。それまでの常識は塗り替えられ、価値観はサカサマになった。大人達は今までとはサカサマな事を子供達に教えなければならなくなった。日本が戦争に負けた事によって、教育者達は子供達に誤りを吹き込んでいた事にされてしまった訳だ。そこから始まる戦後民主主義教育の中で、戦前から教育に携わって来た方々がどんなに苦労したか想像するに余りあるが、それに近い事を最近自分は経験した。他でもない、原発問題だ。

 震災と原発事故が無ければ、原発の安全性や放射性廃棄物の処分についての問題なんて誰も気にしていなかっただろう。震災後、地元では「原発は絶対安全だと思っていた。裏切られた」という発言が多く聞かれた。でも正しくは「そこに問題がある」という事すら自分達は意識していなかったと言い切れると思う。
 震災前、「実は使用済み核燃料の最終処分場なんてどこにも無い事」や「事故の有無にかかわらず、そもそも原発を安全に廃炉にする事自体が困難な事」や「これから数十年の間に、既存の原発が老朽化した時の対策について具体案が無い事」なんて特に意識せずに自分は生きていた。どうにかなるだろうと思っていたというよりも、そこに問題があって、今すぐに手を付けなければならないのだという事自体を認識していなかった。それが震災と原発事故を経て、それこそ天地がサカサマになった位の衝撃を受けた。「何だこれ、もう全然どうにもならない所まで切羽詰まってるんじゃないのか?」って。
 電気がどこで、どんな方法で作られているのか知らなくたって、コンセントがあれば電気は使える。水源がどうなっているのか知らなくても蛇口から水が出れば事足りるのと同じだ。これまでそれで何の問題も無かったし、これから先もそうだろうと自分は思っていた。でも実際はそうじゃなかった。自分が信じていた正しさには何の根拠もなかった。自分が信じていた価値観は震災によってサカサマにされてしまった訳だ。

 本作を観た後で自分が思ったのは、「今の自分が本当に必要とすべきなのはイザムラの物語なんじゃないか」という事だった。イザムラは絵に描いた様な悪役で、主人公のパテマやエイジに酷い事をする。自分の正しさを信じて疑わないタイプの嫌な大人で、選民思想に凝り固まり、サカサマ人を根絶やしにしようと企む。統治者としての権力を振りかざし、弱者を足蹴にして悦に入る。でも、そんな男が最後に自分の信じていた正しさを否定され、「サカサマなのは自分の方だった」と思い知らされ、これまでの自分と、自分が拠り所にしていた価値観を全て木っ端微塵に破壊されて、それでも再出発しなければならないのだとしたら、それから先の物語はきっと現実を生きる自分達の姿と重なるだろうなと思うのだ。まあその機会は無くなってしまった訳だし、そんな惨めで苦難に満ちただけの物語は誰も観たがらないと思うけれど、既に大人である自分が心に留めなければならないのは、パテマとエイジが見据える未来よりも、この悪役のどうしようもなさ=自分達のどうしようもなさなのではないかと思う。

 自分はサカサマじゃないと思って皆生きている。自分が立っている場所の正しさを疑わずに。でもそれは本当に正しいのか、という疑問を抱く時、本作が投げ掛けるテーマは現実問題とリンクしてくる様に思う。原発問題にしても、外交問題にしても、立場や主義主張が違う相手がいる事は変えようがない。上で自分は原発について否定的な事を書いたけれど、原発推進・容認派の方からすれば今の自分の方こそサカサマに立っている様に見えるだろう。立っている地面が違うから、対立や衝突も起こる。でも、お互いに石を投げ合っていても問題は解決しない事は確かだ。お互いが、自分達の信じる狭い世界の中に引きこもっていては、新しい世界には行けない。そんな時に「どちらが正しい地面に立っているのか」という不毛な論争に終始するのではなくて、双方が『サカサマはお互い様だろ』と言ってこれから先の事を考えられるのかどうか。この映画と同じ様に、未来に希望が持てるかどうかは、この一点にかかっている様に思う。

  

テーマ : 映画感想
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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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