「知る」という事の本質を問う・野崎まど『know』

 

 やっと読めた。野崎まど氏の著作を読むのは本作が初めてだ。『知る』という事の意味、或いは人間の死生観を問う濃厚な作品だったと思う。昨年の夏に出版された作品で、既に各所で様々な感想が書かれてもいるから、ここであらすじを追う事はしない。ただひとつ書くとすれば、人間の脳が所謂『電脳化』を施されて、人々がネットに接続する様になった社会を描く物語として、まず『知る』という事の意味や意義が大きく変わって行く筈だとする本作の視点はリアルだと思う。そして物語が辿り着く結末もまたある意味ではショッキングなものだ。その一撃は確実に読者に突き刺さると思う。

 個人的な感想としては、大学時代の専攻が仏教美術だった事もあり、『高雄曼荼羅』が重要なシーンで登場した事が嬉しかった。思わず東京国立博物館で開催された『空海と密教美術展』の図録を引っ張り出してきて開いてしまった。実はこれ、会期中には行けなくて、後で東博に行った時に図録だけ買ったのだ。実に惜しい事をした。現物見たかったな……とまあ、それはさておき、前述の通り、本作は仏教の教義や世界観とも密接に絡みながら展開されるのだけれど、自分が思うに、今の自分達はある意味で仏陀を超えた所に立っているのだと思う。

 当然だが仏陀が生きていた時代と、自分達が生きている現代では個人が手に入れられる情報量が圧倒的に違う。まず自分達はテレビやラジオ、新聞といったマスメディアの力を借りて、今世界各地で何が起こっているのかを知る事が出来る様になった。例えば遠く離れた場所で何が起こっているのかを知ろうとすれば、かつてはその場に行った事がある者からの伝聞か、書物に頼るか、或いは自分でその場に行って確かめる位しか方法はなかったが、今自分達は地球の裏側で起こった出来事ですらこの場に居ながらにして知る事が出来る。更にネットが世界を繋ぐ様になると、情報を受け取るだけではなく各々が全世界に向けて情報発信する事が出来る様になり、その双方向ネットワークの力によって、自分達はほぼリアルタイムで世界中から発信される膨大な情報にアクセスする事が出来る様になった。

 自分達は「個人が知り得る情報量」という点では確実に仏陀を超えた場所にいる。今日の高度情報化社会は、『知る』という一点だけを見ても様々な不可能を可能にした。しかし、自分達がそれによって『悟り』というものに少しでも近付いたのかといえば、これは否だと言わざるを得ない。仏陀その人が辿り着いたと言われる悟りの境地に、自分達はまだ近付けていない。或いは後退しているとさえ言えるかもしれない。それはなぜだろう。自分達は膨大な『知識』を得た筈なのに、それは少しも『知恵』に繋がっていない。ましてや『智慧』は更に遠い。

 昨今、中学高校、早ければ小学生の年代から子供達は既にスマートフォンを携帯している。自分は今30代半ばだが、自分が子供の頃にはスマホはおろか携帯電話すら影も形もなかった事を考えると、この20~30年の間にも世界は様変わりしている事になる。普通に考えればそれは『進歩』の筈だが、少なくとも子供達は自分達に与えられた力に振り回されている様に思う。ネット依存の問題もそうだし、深刻なイジメ等が大人の目から不可視化されてしまっている事もそうだ。

 ネットは個人を繋ぎ、コミュニケーションの輪を広げる為のツールとして機能する筈だった。しかし一方で、ネットの一部はタコツボ化して外部の目が届かない領域となり、特に子供達の間では大人達の目が届かない場所をネット上に確保する事で、その匿名性を温床としたイジメの陰湿化と先鋭化が起こりつつある。ネットは確かに個人を繋いで行くが、その繋がりが良い物ばかりとは限らない。昨年は若者がネット上で知り合った仲間同士で特定個人をリンチする様な事件があったが、子供同士が携帯やネットで大人を介さずに直接人間関係を構築する様になった事で、親や教師がその全体像を把握出来なくなっているという背景がそこにはある様に思う。そして同様の事件はこれからも起こり得る。

 より多くの情報にリアルタイムでアクセス出来る能力を得た自分達は、その力を活かしきれていないどころか自縄自縛に陥って、過去には存在しなかった新たな問題に頭を悩ませている。携帯やスマートフォンが普及した程度でこれだけ新たな社会問題が湧き出している現状を考えると、個人の脳が直接ネットに繋がる事が前提となった社会では、より問題は深刻化して行くだろう。こんな事になる位なら、世界はここまでの高度情報化に踏み込む前にどこかでブレーキをかけるべきだったのではないかとすら思うが、今さら過去へ戻る事など不可能だ。自分達はこれから先、更に情報が氾濫するであろう世界で生きて行くより他ない。

 あくまで自分の主観だが、自分達は『知る』という事の本当の意味をまだ理解していないのではないかと思う。単純に膨大な情報にアクセスする事が出来るだけでは、自分達はその情報量と自らの能力に押し潰されてしまうのではないか。仮に、本作に登場する『電子葉』の様なものが実用化されたとして、それが人間の機能を拡張した時に、自分達はその拡張された脳がもたらす知識量や知覚によって自ら溺れ死ぬ事を防げるだろうか。それすら出来ない様では、本作が描き出す『知る』という事の極地に到達する前に、自分達は自ら作り出すであろう新たな問題によって自滅する。それを乗り越える為には、『知識』は人がより良く生きて行く為の『知恵』にならなければならない。単純に膨大な情報量を知識として頭に詰め込むだけでは問題は解決できないと思う。少なくとも自分は『知る』という事の本質に近付かなければ、自分達が今直面している問題に対する答えは見えて来ない様に思うのだ。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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