癒やしだけではない、甘みを・紅玉いづき『あやかし飴屋の神隠し』

 

 小さい頃に行った祭りの記憶というと、やはり露店で買い物をした事等を思い出す。金魚すくいや綿飴、射的や数字合わせ、型抜き等。昔は自宅の前の道にも露店が出ていた事もあり、いつだったか家のコンセントを使わせてあげた露店のお兄さんが、お礼だからといって大量のイカの姿焼きをくれた事もあった。ちょっと食べ切れそうもなくて苦笑した事を覚えている。
 最近は露店も流行りものを導入しないとお客さんが来ないのか、先日『クロワッサンたい焼き』なる露店を見掛けて、様変わりしたなと感じると同時に、ちょっと昔が懐かしくなった。

 あれはいつ、どこの祭りだったか、飴細工の屋台を見掛けた事がある。職人さんの顔はもう覚えていないけれど、柔らかい飴を捏ね、和鋏で切込を入れたり、竹串の先で押さえたりして形を整え、ウサギや鶴、犬や馬等、様々な形を生み出す飴細工の手際は魔法の様だった。よく「食べてしまうのがもったいない」なんて言うけれど、まさにその通りだったと記憶している。

 本作『あやかし飴屋の神隠し』にも、神業とでも言うべき技術を持った飴細工師が登場するが、彼の作る飴細工はただの飴細工ではない。題名にもある様に、それはあやかし--妖怪の姿を模した『妖怪飴』なのだ。
 妖怪の姿が見える青年『叶義(かなぎ)』と、飴細工師の『牡丹』。2人の飴屋にはなぜか悩みを抱えた人々が集まる。そんな人々の悩みの影に妖怪の姿が見える時、叶義は牡丹に告げる。『作って欲しい、飴があるんだ』と。

 叶義にしか見る事の出来ない妖怪の姿を牡丹が形にする時、妖怪は飴細工の形で具現化される。それによってもたらされる変化は、良いものばかりとは限らない。叶義はこうも言う。『気になるんなら、飴にしてみるか。周りに憑いてる妖怪によって、人間はよくなったり悪くなったりする。そいつが消えたら、よくなることもあるし、悪くなることもある』だから、どっちがいいかは俺には判別が付かないのだと。

 妖怪が単純に人間に害をなす存在として描かれるのではない所もまた、本作の魅力だと思う。それは人の住む世界のすぐ近くにいて、自分達と関わりあっている。その距離感が良い。もしも妖怪に憑かれる事が全て悪い事だと決めてしまえば、それを祓う退魔師としての飴屋が活躍する様な話も書く事が出来るだろうけれど、妖怪が持っている不思議さや奥深さは損なわれただろう。そうではない描き方をした本作の匙加減が自分は好きだ。

 それから個人的に、登場人物で気に入ったのはやはり叶義だった。
 何となく『生きる事に不器用』そうで、他人に誤解され易いのではないかと思う。実はお人好しで、困っている人を放っておけない性分でありながら、どことなく影があって、周囲と打ち解ける事が苦手な様にも見える。彼が抱える過去と数々の後悔が、その生き方に影響を与えている訳だけれど、それらと向き合った時に彼が下す決断が、本著の読後感を爽やかなものにしていると思う。

 「人生一度きり」なんていう事はよく言われる事で、「だからこそ後悔の無い様に」なんていうありきたりな言葉がその後には続くけれど、それでも過ちを犯して、傷付いて、後悔するのもまた人間だと思う。それらをやり直したい、無かった事にしたいと思う事を弱さだと言うのであれば、本当の意味で強い人間なんてそうはいないに違いない。自分達は、きっと弱い。でも自分達はそれを自覚しつつも、これから先も続くであろう日々を生きて行くのだろう。それが与えられる間は。許される間は。もしかするとその途中で、思いがけず祭りの屋台を見付ける様な一期一会があるかもしれない。まだ自分も捨てたものではないと思える様な出会いがあるのかもしれない。苦味の多い日々に、そんな甘い希望を与えてくれる様な作品が、時にはあってもいい。本著を読み終えて、そんな事を思った。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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