言葉にならない、想いを胸に・河野裕『いなくなれ、群青』

 

 言葉がない。自分が何を書いても、この物語の本質とは異なる内容になってしまいそうな気がする。ならば何も書かずにいようかとも思うのだけれど、それにはまた別の苦しみが伴う。だから無理を承知で、書く事にする。最初にひとつだけ言っておくと、本作は紛れも無く傑作なので、こんな感想を読む暇があったら一刻も早く書店へ行って本著を買うべきだという事だ。きっと損はさせない。

 さて、本作は『階段島』と呼ばれる島を舞台にしている。その島は不思議な場所で、島民は誰ひとりとして島を出ることは出来ない。比喩ではなく、例外もなく。仮に船に乗って島を離れようとしても、それは叶わない。
 島民は、階段島で生まれ育った訳ではない。人々は、ある時突然に、自分が階段島にいる事に気付くのだ。そして、自分がどうしてこの島にいるのか、どうやってこの島まで来たのかという記憶を失っている事に気付く。それは“まだウサギを追いかけて穴に落ちたアリスの方が納得できる”という程唐突に。
 そして、島にやって来た者はやがて知らされる事になる。「ここが、捨てられた人たちの島である」という事。そしてこの島を出るには、ある条件を満たさなければならないという事を。

 主人公の七草は高校1年生の少年で、他の島民と同じ様に階段島へ迷い込んだ。なぜ自分がここにいるのか、捨てられたというなら、自分は誰に捨てられたのか。階段島を管理する『魔女』とは何者か。分からない事だらけだ。だが、多くの島民が、やがて階段島を出る事を諦め、島での暮らしを受け入れ始める様に、七草もまた島で唯一の高校に通い、淡々とした、平穏な毎日を過ごしていた。それを象徴する様に、この物語はこんなプロローグで幕を開ける。

“どこにもいけないものがある。
 さびついたブランコ、もういない犬の首輪、引き出しの奥の表彰状、博物館に飾られた骨格標本、臆病者の恋心、懐かしい夜空。
 みんな、停滞している。未来に繋がることはなく、思い出の中で、寒さに震えるように身を縮こめている。それらは悲しいけれど、同時にささやかな安らぎも持ち合わせている。少なくとも彼らが、なにかに傷つくことはもうない。”

 しかし、そんな停滞した七草の日常は、かつての同級生である少女、真辺由宇との再会によって変わって行く事になる。なぜ彼女はこの島に来たのか。穏やかな停滞の日々は終わりを告げ、「七草と一緒に島を出る方法を探す」という真辺に七草は振り回される事になる。

 河野裕氏の小説『サクラダリセット』を最初に読んだ時に、凄く透明感のある文章を書く方だなと感じた。一目惚れという奴かもしれない。小説に限らず、自分はこういう事が稀にある。それからずっと河野氏の作品を追い掛けて来て、書籍化されたものは全て読んだ。そして、その度に歯痒い思いをする。自分は河野作品の魅力を、上手く言葉にする事が出来ない。

 言葉で言い表す事が難しい感情がある。自分でも上手く分類出来ない様な、複雑な想いがある。河野作品はいつもそうしたものに光を当て、丁寧に描写して行く。本作での七草と真辺の関係も、恋愛や友情といった言葉では括れないものだ。そして、その関係を何と言ったら良いのか、自分には分からない。どんな言葉を当てはめてみても、何か違う気がする。愛とか、恋とか、友情といった言葉には様々なイメージが付随しているが、七草と真辺の関係にはそうしたイメージすら不純物である様に感じるのだ。
 相手の存在そのもの。人間としての心のあり方の様なもの。それを互いに受け止めて、向き合おうとしている。理解とか、尊重とか、そんな綺麗な型にはめる事がまだ出来ない、手探りの関係。それに名前を付ける事は、自分には出来ない。

 捨てられた人々が暮らす島。その存在を空想する時、やはり「自分がこれまで捨てて来たもの」の事を思わずにはいられない。自分はなかなかものが捨てられなくて困るタイプの人間なのだけれど、それでもこれまで様々なものを捨てて来た。手放し、忘れて来た。時にはそれで良かったのかと思いながら、後悔しながら、ここまで来てしまった。それを仕方無いと割り切る事も出来ないまま。そんな日々を生きる人間に、この物語は突き刺さる。心の深い部分に、透明な、鋭い刃となって。けれどその痛みは、少しも不快ではない。むしろ、夜空を見上げる事を久しく忘れていた人間が、ふとしたきっかけでそれを思い出す様な、そのきっかけになり得る痛みだ。痛みを知る事は、思い出す事は、痛みを忘れて朽ちて行くよりも幸せだと思う。たとえそれが癒せない種類の痛みであったとしても。

 階段島シリーズと銘打たれているこの物語は、まだ続いて行く事になる。自分はまたそれを追い掛けて行こう。その先に何が待っているのか、今からとても楽しみだ。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

No title

ぼくも本作を読みました。
ライトノベル読書歴だけは結構長いんですが、割と偏ってる人間でして、実は河野裕氏の作品に触れるのは初です。

読んでいて、鋭い「何か」が心臓に突き刺さるような感覚を何度も経験しました。
これまで捨ててきたものは実は捨ててはいけなかったもので、今の自分を構築しているものはゴミの塊だったのではないかと。
胸に刺さった痛みはきっと「後悔」と呼ばれているもので、その鈍い痛みはしばらく引くことはないでしょう。しかし既に諦観するということを学んでしまった人間にとっては、どこか懐かしいような痛みでもあります。

七草と真辺の行動は最善なのかと言うと、他にも冴えたやり方はあるのではないかと思います。
しかし墓穴を掘って相手を傷つけ、反省し、後悔しながら、それでも物語を駆けあがっていくその様に人間味があり、それがすごく愛おしい。

1巻完結だと言われても納得できるほどの傑作でしたが、続きが読めるとは。
物語の階段を上りきった先に何が待つのか。非常に楽しみです。

>タウロニオさん

河野裕氏の作品が持っている透明感が好きです。

大人になった自分は、自分自身の事を「濁ったな」と感じる事があります。それは現実に生きて行く上では必要な事なのかもしれません。「清濁併せ呑む」というと度量の広さを表す言葉ですが、実際にはそんな度量の広さを持ちあわせていない自分の様な凡人であってもそれを求められる事が多い様に感じます。俗に言う「大人になれ」という奴ですね。「綺麗事ばかり言ってるんじゃない」って奴です。
それでいいんだと思う様にしています。仕方無いと思う事にしています。それが内心大人になりきれない自分が社会の中で「大人をやる」という事であり、「生活する」という事であるならば。

でもたまに、「それでいいのか」っていう声が聞こえたりしませんか?

それは多分、昔の自分から今の自分に対する言葉なのだろうと思います。まだ濁る事を良しとしなかった頃の自分が、まだどこかにいるんでしょう。きっと。

河野作品が持っている透明感は、思春期の頃に誰もが抱えていたであろう潔癖さと結び付いている様な気がします。諦める事も、折れる事も、濁る事も良しとせず、まるで哲学者の様に本質を求めていた頃が誰にもあったと思うのです。その頃の自分はもうここにはいないのですが、時折、昔別れた自分の存在を思い出す事があるんですよね。そいつはこっちの気も知らずに言いたい事を言ってくれる訳ですが、本作を読んでいて、またその事を痛切に思い出しました。こういう事なんだろうなって。

昔に比べて濁った自分はそんな事を考えながらも、取り敢えずまだ、何とか生きて行こうと思っています。
プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon