忘却探偵を忘れない・西尾維新『掟上今日子の備忘録』

 

“「ゆめゆめ忘れません。大丈夫です、私、記憶力はいいほうなんです―― 一日以内でしたら」”

 「どんな事件でも一日で解決する」最速の探偵、置手紙探偵事務所所長・掟上今日子。しかし彼女の通り名は『最速の探偵』ではない。前向性健忘の一種であろうと思われるが、とにかく彼女は一度眠りについて翌朝目覚めた時、前日の記憶を全て忘れてしまうのだ。「どんな事件も一日で解決する」のではなく、「どんな事件も一日で解決しなければならない」探偵である彼女は『忘却探偵』と呼ばれる。本著の帯にある通り『今日子さんには、今日しかない。』のだ。

 忘却探偵・掟上今日子が覚えている事が出来るのは、今日一日の記憶だけ。彼女の記憶は眠る度にリセットされる。そんな人物に探偵業が務まるのだろうか、そもそも仕事の依頼は来るのだろうかと思ってしまうが、探偵を雇ってまで何かを調べたい、難問を解決して欲しいと思う依頼者の中には「依頼内容や調査結果を決して公にして欲しくない」といった特殊な事情を抱えた人物も少なくない。そうした依頼者にとって、明日になれば全てを忘れてくれる忘却探偵は非常に使い勝手が良いのだそうだ。実際の前向性健忘の症状で、本作と同様の症状が出る事があるのかどうか知らないが、『忘却探偵』という設定はとても面白いと思う。

 自分の記憶が一日しか保たないとして、自分だったら重要な記憶をあらゆる手段を使って外部記憶に写しておこうとするだろう。メモを書いたり、写真や動画を撮ったり、ボイスレコーダーに声を吹き込んだり。こうしてブログに本の感想を書く事もその一環と言えなくもない。覚えていたい事を完全には忘れてしまわない様に、保険をかけておく。自分の様な凡人でも考えられる自衛策だ。しかし今日子さんはほとんどメモを取らない。事件に関する詳細な資料を残す様な事もない。自分の記憶が保つ一日の間に事件を解決し、そして翌日には全てを忘れてしまう。「今日の今日子さん」は「昨日の今日子さん」がどんな事件に関わっていたか一切関知しないというスタイルを貫く事で、顧客から『忘却探偵』としての信用を得ているのだ。本作を読んでみると「なるほどな」と思うのだが、ちょっと思い付かない設定ではないだろうか。

 ただ、ここで読者にとって重大な問題が発生する。一切の記録を書き残さない『忘却探偵』である今日子さんには、事件について語る「語り部役」が務まらない。『掟上今日子の備忘録』と題された本作において、誰が彼女に代わって『備忘録』を書くのだろう。そこで現れるのが本作のもう一人の主役、隠館厄介である。

 身長190cmを超える大男でありながら“事ある毎にトラブルに巻き込まれ、その犯人だと疑われ、容疑者と怪しまれ、首謀者と考えられ、黒幕と見なされる。”そしてその度に探偵に助けを求める羽目になる彼、隠館厄介こそが、本作の語り部であり、今日子さんの物語を見守る役目を負っている重要人物だ。本人にとってはたまったものではないだろうけれど、彼がいるからこそ、読者は今日子さんの物語を知る事が出来る。彼の冤罪体質に感謝だ。

 今日子さんに好意を寄せているのに、事件が起こって再会する度に「初めまして。あのう、どちら様ですか?」などと言われてしまう厄介の冴えない所は、彼と同程度に冴えない凡俗である自分にとってはとても感情移入し易く、もしも彼が実在の人物であったならば友達になりたい位の勢いなのだが、今日子さんという魅力的な女性に縁がある時点で彼は勝ち組に属すると言えない事もなく、女性と縁遠い自分からすれば羨ましい限りだ。まあそれも、事ある毎に犯人扱いされ、探偵に助けを求めなければならない彼の境遇と照らし合わせれば、最低限の見返りであろうとは思うから許せる範囲だけれど。

 本作はシリーズとして今後も継続するとの事で、今から次回作が楽しみだ。今日子さんが今日の自分を明日には忘れてしまうとしても、隠館厄介と、読者である自分達は彼女を――忘却探偵を忘れない。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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