自分の影を見下ろしながら・上遠野浩平『ブギーポップ・チェンジリング 溶暗のデカダント・ブラック』

 

 大抵の人間は確固たる『自分』というものが確かに存在していると信じている。『我思う、故に我あり』の話ではないが、今ここで何事かを思っている自分というものの存在を信じない事には、確かに色々とややこしい事になりそうな気もする。ただその一方で我が身を振り返ってみると、その大層な「自分の思い」や「自分の考え」とやらは、周囲の影響を受けまくっていて、これまでの人生で自分一人の考えだけで物事を判断したり、何かを決断したりした事などほぼ無いのではなかろうか、とも思う。

 これは先日、久し振りに大学時代の先生と会った時にも話した事なのだが、人間という奴は周囲の環境や、その時々の自分の置かれた立場といったものに影響されて、たやすく考え方や生き方を変えてしまう、結構いい加減な生き物だと思う。そのいい加減さに薄々気付いていても、つい自分も同じ様ないい加減さに流されてしまう訳で、そう考えると『自分』というものもまたいい加減なものでしかないのかな、と暗澹たる気持ちになる。

 例えば自分は、昔から喧嘩が弱い。体は大きい方だと言われるが、腕っ節には全く自信がない。だから殴り合いの喧嘩で物事を解決しようと思った事はないし、他人を威圧する様な態度を取る事も無い。暴力沙汰からは可能な限り離れていたいし、問題解決の手段は基本話し合いだ。その話し合いも自分から折れる事が多い。何であれ人と争うのは気が進まない。それが『自分』だと思うし、それでいいと思っている。
 ただ、ここでもし自分が喧嘩に強くなったらどうだろう。

 トレーニングの結果でもいいし、もっとライトノベルチックな考え方をするなら「ある日突然、何かの特殊能力に目覚めた」でもいい。とにかく何らかの手段で格闘家ですら片手で捻れる程の力を自分が得たと仮定してみる。それでも『自分』は以前の『自分』の様に争いを避け、話し合いをしようと思うだろうか。むしろ気に入らない奴を殴り付けて黙らせる方が簡単だと思うのではないだろうか。直接的な暴力ではなく、権力や財力でも同じ事が言える。社会的権力があればそれを使って横柄な態度を取る様になるかもしれない。財力があれば、大抵のトラブルは金で何とでもなると思うかもしれない。

 何が言いたいかといえば、『自分』というものがいかに周囲からの影響で成り立っているかという事であり、置かれた立場や使える力で『自分』などというものはいくらでも変わってしまうという事だ。良い方向にも、悪い方向にも。その自分にとっての良し悪しの判断基準ですら一定ではない。『自分』というもののいい加減さや曖昧さを自分自身でコントロールする事は至難の業だ。『デカダント・ブラック』など存在しなくても--いや、こんな現実にそれらしい名前を付けたものが『デカダント・ブラック』なのかもしれない。余計な力に目覚めたばかりに、能力者は他人を、そして自分自身を振り回す羽目になる。その多くは、望まない方向へと。

 『自分』というものを持ち続けていたいなら、その基準は自分自身で決めておくしかない。そして望むべき自分像を失わない様に気を付けていなければならない。風に吹かれて右へ左へ揺れる自分を認識し、濃くなったり薄くなったりする自分の影を見つめていなければならない。気付いたら今の『自分』がいつの間にか死んでいて、今の自分ではない自分がそれを眺めている、などという事が無いとは言えないのだから。それは明日かもしれない。或いは今この時かもしれない。そんな事を考えながら自分の影を見下ろしていると、不意にその影が色濃くなった様な気がして苦笑する。自分はもうしばらく、今の自分でいたいと思うから。少なくとも今、この時は。

 (……とかなんとか言って、特殊能力なんか手にしたら嬉々として使うタイプだろお前)
 (で、調子に乗って自滅する所までが目に浮かぶ。まあ、凡俗ですから)

  BGM “Black Dog” by Led Zeppelin

 

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