醜いあひるのままでも・三秋縋『いたいのいたいの、とんでゆけ』

 

 本作は『痛みを伴う』話だと思う。身体の痛み。心の痛み。それらは容易に消す事が出来ない。だから自分達は『痛み』を抱えたまま、日々を生きている。でも、諦めて全部受け入れて生きているつもりでも、その痛みは主張する。そこにまだ、痛む身体と心が存在している事を。命が続いている事を。自分の心の有り様とは関係無く、主張し続ける。

 自分は大人になって、『痛みをやり過ごす』というスキルを身に付けた気がする。それは『痛みを克服する』事や『痛みの原因を取り除く』事に比べれば後ろ向きな行為かもしれない。そう思いつつも、自分はただ耐え、やり過ごす。痛みを。そして日々の生活を。痛みをやり過ごす為には、鈍感になればいい。自分自身に対しても、他者に対しても、世の中に対しても鈍感である事。10代の頃から成長なんてしていないんじゃないかと思える様な自分の心に、幾重にも覆いを被せる事。壁に塗り込める様に、或いは埋葬する様に、容易に触れられない様な、動かされる事がない様な、そんな深い場所に心を埋めてしまう事。『痛みをやり過ごす』為に自分が取ったのは、そんな方法だった。

 叶わなかった夢。伝えられなかった気持ち。言えなかった言葉。忘れてしまった、大切な記憶。取り返しが付かない過ちと後悔。30年以上も生きていれば、自分の中はそんなもので一杯だ。それらを忘れる事も、捨てる事も、克服する事も出来ない弱い人間、つまり自分の様な人間は、後生大事にそれらを全て抱えたまま生きて行かざるをえない。でも真正面からそれらに向き合う事はとても辛いから、その痛みに耐えられないから、鈍感になってやり過ごそうとするのだろう。目を逸らし、口を噤み、何かに期待する事を止め、俯いて歩く事を覚えるのだろう。そうしないと、歩き続ける事が辛いから。痛いから。

 痛みは常に自分の中に存在し続けているのだと思う。どこかにとんでいったりする事はないのだろうと思う。現実には、分かり易い救いは来ない。安っぽい奇跡も起きはしない。だからだろうか。登場人物は作中でこんな事を思う。

“あらゆる苦悩が解決することを前提にしている思想を私は信用しない。どうしようもないことはどうしようもなくどうしようもないのだ。醜いあひるを白鳥に変えるような<救済>などたかが知れている。醜いあひるを醜いあひるのままで幸福にしてみせろ、と私は思う。”

 『醜いあひるを醜いあひるのままで幸福にしてみせろ』という言葉は、強く、重い。そしてその言葉は、作者である三秋縋氏自身にも向けられた言葉ではないかと思う。
 作家は、望むならどんな奇跡も起こす事が出来る。自分の作品の中では。だから不幸な境遇にある登場人物を救ってやる事や、物語を多少強引にでもハッピーエンドに導く事は容易い。現に、そうした物語を好む人もいる。本著のあとがきで作者が触れた様に、「虚構の中でまで悲しい想いをしたくない」という人は多いのだろうと思う。それについては自分も同意する。しかし自分は、同時にこうも思う。

 醜いあひるが醜いあひるのままで幸福になる事が出来る物語がもしあるのなら、自分はそんな物語の方をこそ読んでみたい。

 白鳥になれる者ばかりではないから。幸せを掴める者ばかりではないから。どうしようもないことをどうしようもなくどうしようもないまま抱え込んで生きている者だってこの世界には大勢いるのだから。自分だってそうなのだから。そんな自分が、自分達が、時に互いの傷や痛みに触れて、気休めの様なおまじないを口にしながら、ほんの少しでも笑い合えるのなら、もしかすると醜いあひるは醜いあひるのままで幸福に触れる事が出来るかもしれない。昨日よりも少しだけ前を向いて生きられるかもしれない。一時だけでもその痛みを忘れる事が出来るのかもしれない。

 読むと少しだけ悲しくて痛いかもしれない。もしかすると本著を読む事で、これまで目を逸らしていた自分自身の痛みを思い出してしまうかもしれない。けれど、時にはこんな物語があっても良いのだと思う。醜いあひるが、醜いあひるのままで生きて行く為には。歩き続けて行く為には。読み終えて、そんな事を思った。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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