自分はどこまで自分でいられるか・神林長平『だれの息子でもない』

 

 ……一応、まだ生きております。
 何かと気忙しい年の瀬。仕事もそれなりに忙しく、なかなか本を読む時間もないという中で、いきなりメインのパソコンが壊れ、サブのノートパソコンで騙し騙し更新をする事と相成りました。思えば今年は個人的に色々とあった年で、ここでは特に触れなかったものの、秋頃には転職もしました。新しい職場に馴染むまでにはもう少しかかりそうですが、まあ何とかやっております。主に本の感想を書きなぐるだけのブログですが、来年もまたお付き合い頂ければ幸いです。(年末までに読み切れなかった本の山から目を逸らしつつ)
 さて、ここからはいつも通り。本年最後の更新は神林長平氏の『だれの息子でもない』について。

 忙しい時など、「自分がもう一人いればな」と思う事がある。仕事をしていて手が足りない時や、部屋の片付けが捗らない時等、自分がもう一人いれば、手分けして作業出来るのに、と考えるのだ。子供の頃、多分アニメの『パーマン』か『ドラえもん』を見ていて、自分をコピーできる『コピーロボット』というアイテムが登場した時、それが凄く欲しかった事を思い出す。

 確か、それらのアニメでは主人公が「宿題をやりたくない」とか「お使いに行きたくない」という理由でコピーロボットにそれらの厄介事を代行させようとするのだけれど、性格も自分そっくりにコピーされているから、ロボット側も仕事をさぼろうとして失敗する、という様なエピソードがあった気がする。漫画やアニメだから最後は笑い話で済むけれど、よく考えてみればオリジナルの人間と同等の知能を持ち、同じ様な思考をする事が出来るロボットが実用化されたとすれば、それは人間というものの存在やあり方といったものを根底から覆す程の発明になるだろう。

 本作には『ネットアバター』と呼ばれる人工知能が登場する。現在ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)等でよく使われる見た目だけのアバターとは異なり、ネットアバターは使用者であるオリジナルの人間の嗜好や考え方を学習する事で、インターネット上で本人の代理人として振舞う人工人格だ。それはネット上での個人識別や各種アカウントの管理等、ネット上で必要となる煩雑な仕事を本人に成り代わって処理する。言い換えれば自分の分身がネット上に存在する様なものだ。

 本来、『アバター』というのはネットワーク用語でもなければ映画のタイトルでもなく、サンスクリット語の『アヴァターラ』から来ている。特にヒンドゥー教の神であるヴィシュヌは様々な姿で人々の前に姿を現すとされ、アヴァターラといえばそのヴィシュヌの『化身』の事を指す。転じて現在のSNSでは利用者の化身としてのキャラクターを『アバター』と呼ぶ訳だが、ネットアバターはネット上に存在する利用者の化身という事になるだろう。そしてオリジナルの死後もネット上に残留するネットアバターは、ある意味で人造の亡霊と言えなくもない。

 さて、オリジナルである人間の嗜好や判断基準を学習する事で、本人の代理人を務める事すら可能な程の人工知能が実用化されたとする。それは便利な事で、歓迎すべき発明であるかの様に思えるかもしれない。しかし自分はこうも思う。「オリジナルと全く同じ知能がもう一つ存在するのなら、今ここにいるオリジナルとしての自分の存在意義とは何か」と。そして作中では、ネットアバターがオリジナルに憑依するかの様に現実世界へ滲み出して来る。

 自分の体の中に、オリジナルと同じ思考をする人工知能が憑依したとして、今ここでこの文章を記述している『自分』はその事に気付くだろうか。肉体を乗り物と同じ様に考えれば、今この体を動かし、思考している『自分』から、それを模した人工知能へと運転手が交代する事になるのかもしれないが、自分もその化身も同じ様に考え、同じ価値基準に則って行動する訳だから、どちらがこの肉体をコントロールしていたとしても周囲にはそれと分からない可能性もあるし、自分自身ですらその事に気付かないという事も起こり得る様に思うのだ。そんな馬鹿な、と思われるかもしれないが、パーマンのコピーロボットの様に笑い飛ばしてしまうには、その想像にはリアルな気味の悪さがある。その気味の悪さは、自分の個人的な記憶に由来する。

 自分が思い出せる一番古い記憶は、恐らく幼稚園に通い始める前の幼い頃のものだ。その時自分は自宅の居間に座っていて、台所にいる母親が自分の名前を呼ぶ。自分はその声を聞いて初めて「ああ、自分は○○と言うのか」と自分の名前を思い出すのだ。呼ばれているのが自分だという事も、自分を呼ぶ声が母親のものだという事も、台所にいる母親の顔も理解できる。そこに違和感はない。けれど幼い自分は、それを今初めて見聞きしたかの様に感じている。

 幼い頃の記憶だから、ただの記憶違いという事もあるだろう。ただ本作の様な物語を読むと、もしかするとあの時オリジナルである自分は、今の自分に肉体のコントロールを預けて頭の中のどこかに引っ込んだのではないかとも思う。本作の様に「ユーハブコントロール」「アイハブコントロール」というやり取りがあったかどうかは知らないが。

 自分達は、昨日の自分も、今日の自分も、そして明日の自分も同じ『自分』であるという前提を疑わずに生きている。でもそれは、自分だけがそう思い込んでいるだけかもしれない。本作はそんな風に自分達の『自己』や『自我』といったものを揺さぶる。

 今年が終わる。来年がやって来て、それがまた今年になる。今日が終わる。明日がやって来て、それがまた今日になる。その積み重ねの中で、自分は、私は、僕は、昨日までの自分と同じ自分だろうか。それとも時の流れの中で古い自分は何度も死んで、或いは消えて、今の自分にこの体のコントロールを明け渡して来たのだろうか。今ここでこうして何事かを考え、文章を書いている自分は、どこまで自分でいられるのだろうか。そんな事を考えながら、今年が終わろうとしている。だから今、こう書いておこう。

 除夜の鐘と共に消えて行くかもしれない自分から、来年の自分へ。
 大切な事を忘れない様に、大切な事を大切だと思い続けていられる様に、たまには立ち止まって、振り返って、考えろ。過去の自分が記録した言葉を読み返せ。自分が立っている場所を、そこに繋がっている足跡を確かめろ。自分が自分であり続ける為に。

 ……まあ問題は、本来自分はそんな忠告をする奴でもなければ、それをおとなしく聞く人間でもないという事なのだけれど。そんな自分らしさに苦笑していられる間は、まあ大丈夫だろう。
 そう思う。そう思う事に、しておく。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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