虚構は現実を凌駕する・江波光則『我もまたアルカディアにあり』

 

 虚構が現実を凌駕する瞬間があると思う。

 先日、酒鬼薔薇聖斗の『絶歌』の感想を書いた。あの本が何万部売れているのかは知らないが、大手通販サイトでしばらく1位をキープしていたから、相当売れたのだろう。

 殺人犯が手記を書く。すると皆(自分も含めて)興味を持つ。異常な事件を起こした猟奇殺人犯の素顔や、事件の動機、殺人を犯すに至るまでの過程といったものが、誰かの分析ではなく、本人の口から語られる事を期待してしまう。しかし、あの本を読んだ人には分かると思うが、酒鬼薔薇本人ですら自分がなぜあんな事をしたのか、その核心について語る事が出来ていない。ナメクジやカエルを切り刻んでいた少年が、猫殺しの末に人殺しになって行った過程を、自分の事であるにも関わらず満足に語れない。そう、「敢えて語らない」のではなく、「語れない」のだろうと思う。他人の傷みが分からないのと同じ様に、自分の事も分からない。他人に向ける刃は鋭くても、自分に向ける刃はナマクラだ。どうせ手記を書くのなら、自らを腑分けする位の鋭さで切り込み、自分自身の内面を解体するべきだったのだ、彼は。それが出来ないのなら、匿名に守られたまま溶接工として会社に勤め続け、ひっそりと死んで行くべきだった。

 『人を殺す経験がしたかった』と言って他人を傷付けた若者がいた事を思い出す。確かに殺人なんて誰もが経験する事じゃない。それは間違いなく人生を変えるだろう。殺人犯は、恐らく自分達が知り得ないものを肌で感じた筈だ。だから「人殺しの気持ちは人殺しになってみなければ分からない」と言われれば、そうなのかもしれないと思う。ただ、その体験を語る言葉が借り物で、自らの内面を抉る刃がナマクラならば、彼が語る事に価値は無く、意味も無い。凡庸な言葉はいらない。自分が必要としているものは殺人犯の日記帳ではない。そんなものならチラシの裏か、ネットの片隅にでも書き殴っていればいい。自分が必要としているのは人間を、自分を、社会を、世界を切り刻み、その臓腑を曝け出させる程の鋭さを持った言葉だ。そして江波光則は、その鋭さを持つ作家だ。

 本作はフィクションだ。登場人物も、彼等が暮らす世界の有り様も、全てが作り物であり紛い物だ。しかし、本作で語られる事は、自分達が生きている今を色濃く反映している。現実に人を殺した者の言葉がどこか作り物めいているのとは対照的に、全てが虚構の物語の中で、登場人物達は『生きた言葉』を語る。本当に生きてはいないのに。彼等が世代を超えて紡ぐ物語は、確かに自分を惹き付ける。自分が望んでいるのは、欲しているのはこちらの方だという事を思い出す。

 本著の帯には『閉塞した天国で死ぬか、開放的な煉獄で生きるか。』という一文が書かれている。閉塞した天国。今の日本は、間違いなくこの『閉塞した天国』の類なのだろうと思う。ただ、ここで誤解してはならないのは、本著は別に「閉塞した天国で死ぬ事」をただ否定している訳ではないという事だ。

 大多数の人間は、閉塞した天国であるこの国で、平凡に暮らしている。自分もきっとそうなんだろう。日々に不満はあったとしても、ここで何とか周囲と折り合いを付けてやっている。時々叫び出したくなる様な事はあるかもしれない。何もかもが嫌になって投げ出したくなる様な日もあるだろう。でも、そんな事は誰にだってある。だから自分は、この閉塞した天国に住む一員として日々暮らしている。今日も、明日も。

 スタージョンの法則で言えば、自分は9割の方だ。だから凡人なんて名乗っていられる。けれど中には、9割のカスと同じ様には生きられない、残り1割の側に属する人間もいる。そういう人間は、天国から出て行かなければならない。誰に追放される訳でも強制される訳でもなく、自分の意志で。何の為に、と問われれば「生きる為に」としか言えないけれど。

 どちらの生き方が幸福なのかなんて誰にも決められないし、決めて欲しくもないが、確かな事は、そこが閉塞した天国であろうと、開放的な煉獄であろうと、人はそれらをひっくるめた大きな世界の中で、自分が望む生き方や、自分の居場所を求めて生きて行くのだという事だ。迷いながら、悩みながら、時に開き直りながら。9割のカスとして。或いは、1割の規格外品として。どちらもきっとそれなりに険しい道だろうが、肝心なのは自分自身が、自らのあり方に納得できるかという事だ。

 何だかどれだけ書いてもこの作品をきちんと語れた気がしないし、まとめられる気がしないのだけれど、決して本作は難解な作品ではない。読めば分かる。きっと誰にでも。だからこそ読んでもらいたいと思う。そして語り合う事ができたら、きっと楽しいだろう。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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