たとえ世界は終わるのだとしても ベン・H・ウィンタース:著 上野元美:訳『地上最後の刑事』

 

 半年後に小惑星が地球に衝突して、人類が滅亡するのだと予想されている世界。世界が、そして社会が、ゆっくりと壊れ始めている中で、一人の刑事がある不審死の謎を追って行く。ハンバーガーショップのトイレで首を吊った男。誰もが自殺だと言うその男の死を、主人公は疑う。これは自殺に見せかけた殺人ではないかと。

 「他殺だったらどうだと言うんだ?」という状況ではある。世界の終わりを前にして、自殺者は増加の一途だ。その中にはもしかすると、主人公が疑う様に自殺に見せかけた殺人が紛れ込んでいるのかもしれない。世界が終わる前に、自分の手で憎い相手を始末したいと思う者もいるだろう。今の日本ではすっかりお馴染みになった「誰でも良かった」なんていうスナック感覚な言い草で殺人に走る人間だっているに違いない。どうせ世界は終わるのだ。失って困る未来なんて、可能性なんてどこにも残されていない。世界が終わるという時に肥満を気にしてダイエットを始める人はいるだろうか? 将来の健康の為に禁煙しようとする人は? 最後のその時まで、慎ましく、善人として生きようとする人は?

 世界の終わり。文明の崩壊。人類の滅亡。それがどんな風に訪れるものなのか、色々と想像を巡らす事は出来るだろう。荒廃した世界の中で、力を持つ者が弱者から全てを奪い取って行く様な時代が来るのか、或いは人間の力など及びもつかない様な天変地異や災害が全てを押し流して行くのか。または本作の様に、予定された「その時」に向かって、世界は緩やかに閉じて行くのか。

 平凡な社会人として自分が思うのは、今の自分の暮らしを続けて行こうと思う理由の多くが、『未来』に対する何の裏付けもない『希望』を盲信する事で支えられているという事だ。寝て起きて、朝になればまた仕事に行き、ひと月経てば給料日がやって来るという前提。平日は仕事に追われても、週末になれば少しは趣味の為に時間が使えるだろうという前提。今日を生きている自分は、明日もまた生きて行けるだろうという惰性。それを疑わないから、自分は生きて行ける。そうした平凡な、平穏な暮らしを失いたくないから、自分は善人でいようとする。盗人になる訳にはいかないし、人殺しになる訳にもいかない。人生を、将来を棒に振る訳にはいかない。でも、もしもそんな『未来』がもう来ないのだとすれば、生身の、むき出しの自分はどんな風に生きようとするだろう。

 貴重な人生の残り時間を仕事に捧げるか? 他人の為に何かしようとするだろうか? 欲望を抑える事に意味はあるだろうか? 本音と建前のどちらを優先する? 信仰は支えになってくれるだろうか? 憎しみは忘れるべきか、恨みを晴らすべきか? ここは本当に自分が居たい場所だろうか? これは本当に自分が望んだ生き方だろうか? そもそも自分とは何だろうか? ここで、こうして生きている自分とは? そもそも、自分は確かに生きていると言えるだろうか?

 終末は、人を試す。

 その時が来れば、たがが外れた様に人間の善性なるものは消え失せるのかもしれない。隠しておく必要も、自制する必要も無くなった欲望を満たす事に皆が躍起になるのかもしれない。水が高い所から低い所に流れる様に、人は易きに流れるものだから。

 でも自分は、「それが人間の本質だ」とはまだ思いたくない。

 「地上最後の刑事」の様に生きる人がいたっていい。
 「今更そんな風に、生真面目に事件の真相を追い求める事に意味は無い」と誰もが言うだろう。どうせ世界は終わるのに。どうせ未来はもうやって来ないのに。皆が好き勝手にやればいい。窃盗だろうと殺人だろうと知った事じゃない。自分だってきっとそう思う。でも、皆が好き勝手に生きると言うのなら、自分の好き勝手に、正しく、真っ当に生きる事を選ぶ人間がいたっていい。最後まで人間の善性を信じて生きたいんだと思う様な人間がいてもいい。奪う事よりも分け合う事を、助けを求められたら手を差し伸べる事を選ぶ人間がいてもいい。どうせ未来はもうやって来ないのだとしても。

 想像してみる。今から半年後に落ちて来る小惑星を。その時自分はどう生きようとするのか。どう生きるのか。どう生きたいと願うのか。そこには答えも正解も無いけれど、誰のためでも誰のせいでもなく、自分が望む答えを探す事が出来たら、きっと自分は納得して終末に臨めるのではないかと思うのだ。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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