キャッチボールは続いて行く・早川書房編集部 編『伊藤計劃トリビュート』

 

 人と人とのコミュニケーションは、時としてキャッチボールに例えられる事がある。「会話は言葉のキャッチボールである」とか。自分はそのキャッチボールがあまり得意な方ではないけれど、長いこと読書を趣味にしていると、作品から、或いはその作者から、何かを受け取れた様な気持ちになる事がある。それは会話の様な一対一のキャッチボールではないし、自分が何かを受け止めたと思っている事も、作者が想定していない、単なる思い込みである可能性は高いのだけれど、それでもボールを受け止めたと感じてしまった以上、無視は出来ない。受け止めたボールをどうするのか。それは受け手に委ねられる。

 伊藤計劃氏の著作は様々な人の心にボールとなって飛んで行ったのだろう。この『伊藤計劃トリビュート』と銘打たれたアンソロジーに作品を提供した作家陣の顔触れを見ても、その事がうかがえる。本人にそのつもりがあったのかどうか定かではないけれど、それでも本著に寄稿した8名の作家は、各々が自らのやり方で自分の所に届いたボールを投げ返したのだと思う。少し悲しいのは、その投げ返されたボールを受け止める筈だった人が、もうこの世にいないという事だが、それでも彼等が投げたボールは、また予期せぬ誰かに受け止められ、このキャッチボールは続いて行くのだろう。どこまでも。

 『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』といった物語に、どうやって応えるのか。収録された作品を読んで行くと、それぞれ異なった印象を受ける。

 藤井太洋氏の『公正的戦闘規範』は、昨今ニュース等でも耳目を集める『ドローン』や『歩兵支援用多脚型ロボット』等のガジェットを用いて「公正な戦争」のあり方を模索する。政府と反政府勢力の双方がAI制御の無人兵器を用いた殺し合いという泥沼に突き進んで行く中で、公正な戦争とはどの様な形であるべきか。本作は『虐殺器官』に対する藤井氏の返答であり、同作を連想させる『ORGAN』という言葉が用いられるなど、伊藤計劃氏のファンならばニヤリとさせられる様な展開が楽しめる。

 伏見完氏の『仮想(おもかげ)の在処』は、ある双子の姉妹の姿を通じてテクノロジーの発達と人間の関係を問う。産後、自発呼吸が止まったままの姉を蘇生させる為に両親が選んだ方法は、その脳を取り出して中枢神経系をスキャンし、脳の機能をまるごと仮想化する事で、「システム上で姉を生かし続ける」事だった。システム上でエミュレートされた姉の成長や喜怒哀楽といった感情。それは果たして人間と呼べるのだろうか。

 柴田勝家氏の『南十字星(クルス・デル・スール)』は「軍属の文化人類学者」である主人公の視点から、『民族』というものを問い直す。そこでは人々がある種の電脳化によって『自己相』と呼ばれるシステムに繋がっている。人類という種の基準値。平準化された「正しい人」という集合自我に人々はアクセスしている。自己相を受け入れた人々は、その文化的な差異や国家の多様性をシステムの力を借りる事で埋めて行くが、それに繋がる事を拒否する人々との間にはなお高い壁が立ちはだかる。民族という言葉が「自己相を受け入れた者と受け入れなかった者」の違いを指すものになった世界で、その定義は本当に正しいのか、人と人とが理解し合うというのはどういう事なのか、また憎しみとはどんな物なのかを筆者は描いて行く。
 本作はまた、後に刊行予定の第2長篇から冒頭部分を抜き出したものであるとの事で、そちらも楽しみだ。

 吉上亮氏の『未明の晩餐』は死刑囚に供される最後の晩餐を作り続ける料理人の視点から、人間の心を描く。世界規模で発生した気候変動による飢餓を経験した事で、人々の倫理観にも変化が訪れた時代。そこでは死刑のあり方も大きく変わっていた。死刑囚が刑の執行を受け入れたかどうかが機械的なスキャンによって判別される様になり、彼等が心から死を受け入れなければ死刑執行は出来なくなったのだ。そんな中で最後の晩餐を提供する料理人は、ある意味で死刑囚に刑の執行=死を受け入れさせる為の仕事であると言える。13階段を上る死刑囚の背中を押す為の料理。日々を生きる糧としての料理。食べるという行為は生きる事に直結しているという事を改めて実感する。

 仁木稔氏の『にんげんのくに』は、熱帯の森の奥深くに暮らし、自らを『人間』と称する部族の中で、『異人』として生きる男を主人公にしている。「異人女のせがれ」という生い立ちから、名前もなく、いつしかただ『異人』と呼ばれる様になっていた彼は、『人間』の国の中で異人として生きる中で、自分の居場所を求める。時折聞こえる『風』のささやき。その風の背後で異人に何事かを命じて来る『彼ら』の存在。異人はその生を通じて「自分とは何なのか」「人間とは何なのか」という問いを発し続ける。

 王城夕紀氏の『ノット・ワンダフル・ワールズ』は伊藤計劃氏の『ハーモニー』に対して放たれるカウンターの様な衝撃を持っている。真の調和、完全な調和とは何か。『ハーモニー』で描かれた調和のかたちを踏まえた上で描かれる「人間の進化」の中では、調和はむしろ「ふりだし」だとされる。ならば人間の進化が行き着く先とは何か。更に作者が用意する結末はそれすら越えて行く。

 伴名練氏の『フランケンシュタイン三原則、あるいは屍者の簒奪』は明らかに『屍者の帝国』を彷彿とさせる作風で、「切り裂きジャック」や「フローレンス・ナイチンゲール」といった登場人物達が、史実とは異なる姿で読者の前に姿を現す事になる。特にナイチンゲールに関しては「こう来たか!」という感じで、読んでいて痛快だった。

 長谷敏司氏の『怠惰の大罪』は長篇原稿の第1章との事だが、キューバを舞台に麻薬王カルロス・エステベスの生涯を描く作品になるのだろうか。『人類史上最後の麻薬王』と呼ばれた男の物語は長篇に引き継がれる事になる訳だが、これも続きが気になる作品ではある。
 貧困から抜け出す為に麻薬の売人になった男。より良い稼ぎ、より高い地位、より強い権力。そうしたものを求めて、自分の命を掛け金にした博打に挑み続ける男は、やがてこのゲームの本当の勝者がどこにいるのかを突き止める。自分が盤上の駒ではなくなる為に、勝者の地位を奪う為にはどうすればいいのか。『勝ち組』『負け組』といった言葉で、半ば茶化される様に語られているこの日本の格差社会が子供の遊びに思える程、カルロスが叩き込まれているゲームは苛烈だ。負ければ命を失う。勝つ為に相手の全てを奪い、踏み躙る事が当然の世界でのし上がろうとする彼の姿は、世界の不条理に対する復讐を決意した男の物語でもある。

 以上の収録作は、どれもそれ単体で評価されてしかるべき熱量を持った『本気の』作品だと思う。本著が伊藤計劃氏の名を冠して刊行される事について、ネット上では一部読者から批判的な意見が述べられたと記憶しているが、本著がただ「故人の人気にあやかって商売をしよう」という意図で作られたのであれば、ここまでの熱量を持った作品が集まる事は無かったのではなかろうか。よしんばその批判通りだったとしても、個々の物語は伊藤計劃作品の安易な二次創作や焼き直しの枠に留まってはいない。『伊藤計劃トリビュート』という枠を超えて、作家達は各々が伊藤計劃氏から受け取ったボールを、彼らなりのやり方で、全力で投げ返した。それを受け取って欲しかった相手はもういないのだとしても、読者である自分達や、他の作家達の下にそのボールは熱量を保持したまま届くだろう。そしてまた、キャッチボールは続いて行く。ボールを投げた本人の意志から離れて、予期しない方向へと広がって行きもする。仮に伊藤計劃氏の名前が、人々の口の端に上らなくなったとしても、その広がりの中で、自分達はまた新たな作品と出会う事が出来るだろう。今からそれが、楽しみでならない。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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