なぜ戦うのか、なぜ生きるのか・野島 一人『メタルギア ソリッド サブスタンス I シャドー・モセス』

 

“「スネーク!」
 オタコンは声を張りあげる。無言で前に進むスネークに向かって。教えてほしいことがあるのだ。
「彼女はなんのために闘ってたのかな? ぼくは何のために? スネークはなんのために?」
 オタコンの声は涸れていた。スネークは歩みを止めた。
「生きて逢えたら、答えを教えてやる」
 どうしてなのかわからなかったが、自分の顔が一瞬にして笑顔になったのがわかった。気がついたら子供のように手を振っている。
「わかった、そのときまでに、ぼくも答えを探しておくよ」”


 この小説でも、ゲーム『メタルギアソリッド』の中でも、好きな場面をいくつか挙げるとしたら、このオタコンとスネークの会話は間違いなく入ると思う。

 さて、『伊藤計劃トリビュート』の後に感想を書くとすれば、やはり本作は外せまい、と思っていたのだけれど、本作の読了よりもファントムペインの発売が先になった都合で感想書きが遅れた。というかただ単に感想書きそっちのけでファントムペインをやっていただけとも言う。

 伊藤計劃氏の代表作というと、『虐殺器官』であり『ハーモニー』であり、という話になりがちなのだけれど、『虐殺器官』の原型『Heavenscape』(ハヤカワ文庫JA『The Indifference Engine』に収録)が『スナッチャー』の影響を色濃く感じさせる作品であった様に、また『フォックスの葬送』がメタルギアシリーズの二次創作であった様に、伊藤計劃氏と小島秀夫監督との繋がりは深い。伊藤計劃氏が執筆した『メタルギアソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』を読んだ時、読者である自分の満足感もあったけれど、このノベライズを一番喜んだのは他でもない伊藤氏だったのではないかと思う。それは自分の勝手な想像だけれど。そして伊藤氏亡き後、メタルギアシリーズのノベライズを手掛ける事になった作家の一人が野島一人氏である。

 前作『メタルギアソリッド ピースウォーカー』の刊行時は詳細なプロフィールが明かされなかった事から、「覆面作家」的な印象を持つ読者が多く、ネットの片隅では「野島一人=小島秀夫説」なんていうものまで出ていたが、実際のところ、その辺りの事はもうどうでもいい気がしている。そういえば昔、ライトノベル業界では越前魔太郎という作者名を使って複数の作家が作品を出したりしてたなとか、今書店で見かける『NOVELiDOL』って、あれはどういう企画意図なんだろうなとか余計な事を考えたりもするけれど、まあそれはそれとして。肝心要の部分は、野島一人氏が描くメタルギアの世界が、ゲームとどれだけ深くリンクしているかという事であり、小説版『ピースウォーカー』の解説で小島秀夫氏が『異常な愛情』と評していた様な『濃さ』や『熱量』が、どれだけ作品の中に込められているかという事ではなかろうか。

 そういう意味で、改めて本作を読み返してみると、小説版として敢えて表現を変えている場面等もあるが、それもまた野島氏から原作への返答なのではないかと思えて来る。個人的には、原作がこれだけ語られ尽くしている作品であるだけに、もっと小説独自の展開や詳細な部分の掘り下げがあっても良かったと思うし、『ピースウォーカー』の時と比べても、独自要素という意味では薄味になった気もするが、そこは原作への敬意として最低限に留めたという事かもしれない。ただ原作をなぞるだけならばノベライズの意味は無いが、かといって原作を改変し過ぎてしまえば本質が失われてしまうという、ノベライズ特有の難しさを、野島氏は上手くまとめている。

 本作について語る事と、原作であるゲームについて語る事を明確に切り分ける事は、両者が密接に関係している事から難しいのだけれど、自分が本作を読んで強く感じた事は、冒頭に引用した場面に集約されていると思う。それは人間が「何の為に生きるのか」という問いだ。

 何の為に戦うのかという問いは、そのまま何の為に生きるのかという問いに繋がる。

 戦う為に、優秀な兵士である為に「造られた」スネークは、自分の意志とは無関係に様々な役割や宿命じみたものを背負わされて来た。その男が、何の為に戦うのかと問われ、「生きて逢えたら、答えを教えてやる」と返す。でも、そう答えるスネークも明確な答えを持っている訳ではないのだろう。誰かに仕組まれた運命ではなく、背負わされた宿命でもなく、自分の意志としてなぜ戦うのか。何の為に生きるのか。自分が何の為に戦っているのか=生きているのかを問われて、それを具体的に断言できる者は少ない。だから「生きて逢えたら」という言葉になるのではなかろうか。

 オタコンに対して言外に「その時まで死ぬな」というメッセージを送る意味もある。そして同時に、問われた事に言葉で答える事が出来ないからこそ、自分もまた生きて答えを示さなければならないという決意としての「生きて逢えたら」という言葉がそこにあるのだろう。

 自分は何の為に生きているのか。それは言葉で端的に言い表せる様なものではない。だからこそ、もしこの窮地を乗り越えて、生きて逢う事が出来たら、その時生きている自分自身の姿を見せる事で答えとするしかない。そんなある種の不器用さ=誠実さが、スネークの魅力である様に思う。そうした細部を、時間をかけて読んだり、行きつ戻りつして再読したり出来る事が、時間経過と共に進行するゲームには難しい、小説という形式の持つ強みだ。

 さて、今月にはマンハッタン編が刊行されるとの事で、野島氏が描く雷電がどんな姿になるのか、それもまた楽しみだ。雷電もまた、ある意味で「不器用な男」であるだろうから。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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