三崎亜記『となり町戦争』(1)

 最近戦争をテーマにした記事を立て続けに書いたので、というわけでもないけれど、今日は三崎亜記『となり町戦争』について。

 三崎亜記という作家は何だか毎回『ずれた現実』を描いている気がする。いや、リアルじゃないとか、着眼点がずれているとか的を外しているとかそういう意味ではなくて、意図的に、そして執拗に現実からずれたもう一つの現実を書いているのではないかと思う。それは完全に現実から離脱したファンタジーではなくて、むしろ現実に軸足を置きながら虚構に一歩足を踏み入れた様な、微妙な違和感を抱かせる物語だ。

 ライトノベルを読む人はわかると思うけれど、あのジャンルの小説によくある『日常に非日常を持ち込む手法』と三崎亜紀の小説は全く異なる。ライトノベルが日常に持ち込む非日常は強烈で、その中の日常はあっという間に非日常に侵食されて跡形もなくなる。舞台は確かに現実世界を下敷きにしていても、その空気は完全に異世界のものだ。たとえば舞台が日本であっても、そこは既に現実の日本とは完全に乖離した異世界で、読者は混乱する事無く『あちら側』に身を置いて物語を追っていく事になる。

 ところが、三崎亜紀の小説が描く非日常はささやかな違和感の様なもので、だからこそ読者は完全に『あちら側』へ行く事が出来ない。自分が現実に生きているこの世界と、小説の中の世界との曖昧な境界付近を行ったり来たりしながら物語を追う内に、次第にこの現実世界が内包する違和感や問題点があぶり出されて来るという仕掛けは秀逸だと思う。

 このささやかな違和感は現実でも感じた事があるなと思っていたのだが、最近気付いた事がある。
 この違和感はいわゆる『役所仕事』のそれに似ている。

 『役所の人間は話が通じない。融通が利かない』というのはよく聞く話だ。それは別に役所の人間の教養や能力の問題ではなく、一般人と彼等とでは生きている前提というか、法則が違うから起こる現象だと思う。
 現実問題として、処理すべき問題Aがあったと仮定して、問題が処理された状態をBとすると、AからBに至る手段は本来いくつもある。一般人は『過程がどうあれ、結果Bに辿り着けばいい』という前提を生きているので、対応策も柔軟性がある。中には非合法的な手段を使うものもいるだろう。
 ところが『役所の人間』には、この様な柔軟な対応はそもそも許されていない。
 たとえば役所で何か申請をする場合に書かなければならないものとして、定型の書式に則った各種書面がある。様式1、様式2とか。それらの処理は慣れない人間にとって煩雑で判り難い。もっと簡素化できないのかとか、融通が利かないのかと思うが、逆に役所が個々の申請者に対して柔軟な対応などというものを始めてしまったら収拾が付かない。だから役所の人間は、必ず定型のパターンによって問題を処理しなければならない。つまり問題Aから解決Bへ至る手段は一つでなければならない。これが役所の人間の融通の利かなさだ。

 これが実際に窓口で役所の人間と相対したときの違和感に繋がる。

 同じ日本人で、同じ国に住み同じ言葉を話している筈なのに、生きている前提が違う事によって話が通じない。これが例えば言葉も通じないし生活習慣も歴史も違う異国での事だったら最初から諦めも付くし、違和感はない。違和感を感じるのは、同じ日本人なら絶対に話が通じる筈だという前提が覆されるからだ。そして三崎亜紀の小説にもこれは当てはまる。

 三崎亜紀の小説はファンタジーとは違い、限りなく現実に近い世界を描いている。読者は当然『そこでは現実と同じ価値観や方法論が通用する』という前提でいる。ところが小説の世界に生きる人々は実際には自分達とは異なる前提を生きているから、その行動や思考の端々が読者にとっての違和感となって残留する。

 この齟齬と違和感によって、『現代日本人の戦争』を描くとどうなるか。それが『となり町戦争』であって、そこには『戦争から遠く離れた日本人』の姿が映し出されている。

 

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon