理解される事と、分類される事の差異・西尾維新『掟上今日子の遺言書』

 

 やっと仕事が一段落。これでもう少し本読みと感想書きが捗ると良いなぁという希望も抱きつつ、年末に向けてはまた忙しくなるだろうと思うので、今のうちにリハビリがてら短めに感想書きを。

 ドラマ化されて話題になっているシリーズでもある事だし、基本的な設定等は過去の感想を参照して頂くとして、個人的には本作に登場する『遺言少女』が、ビルから飛び降りる事になった理由について思う所を書いておこうと思う。

 人間って不思議なもので、相反する感情を併せ持つ事で生きている様な部分がある。簡単に言えば矛盾している。本作で言えば、他者から『理解される』という事に対する欲求と忌避感がそれに当たる。

 「大人は判ってくれない」という言葉があるが、自分が思春期だった頃を振り返ってみると、主に周囲の大人が自分達の価値観やものの考え方に無理解である事に憤る一方で、知ったふうな口を利く大人はそれ以上に嫌っていた気がする。理解と尊重を求めつつ、実際に理解を示されると苛立つというのは面倒臭い事この上ないが、それは自分が世間から大人と呼ばれる年令になった今だからこそ思う事であるし、もっと言えば、大人になった今だって、訳知り顔で近寄って来る人間は苦手だ。自分がそうなってしまっていないかは、自己反省する必要があるとしても。

 思うに、自分達が欲している『理解』というのは、常に『一対一の理解』なんだろうと思う。そして、自分達が忌み嫌う理解というのは、『一対多の理解』なのだ。きっと。

 『一対一の理解』について語る前に、『一対多の理解』について話をした方が良いと思うので、順番は前後するけれど少し書いてみる。

 『理解』というのは『分類』でもある訳で、何かについて理解しようとする時、自分達は無意識に「それと似たもの」を探す様に出来ている気がする。例えば今まで一度も食べた事の無い料理を食べた時、普通に「~みたいな味がする」と思うし、他人に説明する時にもそんな言葉を使う。本を読む、映画を観る、ゲームをする、初対面の人と会う。そんな様々な局面で自分達は「~みたいな」という印象を持つし、そんな言葉で他人に説明する。もしかすると、「~みたいな」が使えない様な、今まで誰も見た事も聞いた事も無い様な分類不能の『何か』もまだこの世には存在しているのかもしれないけれど、大抵は「~みたいな」で事足りてしまう。

 物についての理解はそれでいいのだと思う。しかし人間についての理解に「~みたいな」という『分類』は合わないし、嫌われる。それは「個として尊重されたい」という人間の面倒臭い自意識にそぐわないからだ。自分が『一対多の理解』と書いたのはこの事だ。相手の事を「~みたいな」という多数の中に当てはめて『分類』する事による理解がそこにはある。

 思春期の自分が贅沢にも欲しがっていたのは、『一対一の理解』であって『分類』ではない。『理解』は『共感』であり『尊重』であり、互いに認め合う事に繋がるが、『分類』は自分という『個』をありがちな、十把一絡げの、取るに足らない、個性もへったくれもない「~みたいな」の中に叩き込もうとしてくる。思春期だから、反抗期だから、思想的に彼は右だから、(或いは左だから)日本人だから、~人だから、こういう本が好きな奴だから、(或いはこういう本が嫌いな奴だから)きっとこんな人に違いないという『分類』は、物事の理解のやり方として合理的で無駄がなく手っ取り早い反面、『雑』でもある。もうひとつの問題はそれが雑でありながら、大抵当たっているという事で、人間の個性や自意識なんてそんな大層なものじゃないという事なのかもしれないが、それでも『個人』としては、自分という個性の『凡庸さ』や『底の浅さ』を露呈された様で嫌悪感を持ってしまうものだ。我ながら面倒臭いが。

 かく言う自分も日常生活では『分類』や『一対多の理解』を便利だからと使いまくっている訳だが、それを他者に向けた時に、自分の勝手な『理解のつもりの分類』が、知らず知らずのうちに相手に傷を負わせている可能性について考えてみる事が必要なのかもしれない。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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