人間とは何かを、人は自ら定義できるか?・森博嗣『彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone?』



 ようやく読む時間が取れた。
 さて、作中で何度もフィリップ・K・ディック氏の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が引用される様に、本作は森博嗣氏の手による『人間について』の物語だ。

 人工細胞技術の進歩により、人類は寿命という制限を超越しつつある。機能が低下した臓器その他を人工細胞に置き換えて行く事により、100年をゆうに超える寿命を獲得した人類は、限りなく『死に難い』種族になった。しかし、仏教で言う所の『生老病死』の四苦の内、『老病死』の3つを克服したとも言える人類を待ち受けていたのは、『出生率の極端な低下』という落とし穴だった。子供が生まれて来ない事。寿命を人工的に引き伸ばし、死ななくなった大人達だけが暮らす世界。

 一方、減少する世界人口の中で存在感を増しているのは『ウォーカロン』と呼ばれる一種の人造人間達だった。人工知能を有し、人と変わらぬ立ち居振る舞いをする様に造られた彼等は、当初は機械的な体を持つロボットだったが、人工細胞技術の進歩は彼等を限りなく人間に近付けて行く事になる。人と同じ細胞で造られた体を持ち、人と同じ様に思考するウォーカロンと、自らの体を人工細胞に置き換えて行く事で緩やかにウォーカロンに近付いて行く人間。両者の差異は、限りなく小さくなって行く。共通点は、人間もウォーカロンも、子を産む事が出来ないという事だ。

 『天然か養殖か』という程度の違いになるまで接近する両者。一方で、「人間とウォーカロンを見分ける技術」を研究していた研究者、ハギリ・ソーイは、何者かに命を狙われる事になる。彼の命を狙うのは何者か。そして、人間の出生率低下の謎は解き明かされるのか。

 自分にとって人間とアンドロイドの物語といって思い出すのは、やはり士郎正宗氏の漫画『攻殻機動隊』だ。脳以外の全身を機械に置き換える『全身義体化』によって進むサイボーグ化は、「自分は果たして人間なのかどうか」という疑問を抱かせる。作中冒頭で、攻性防壁に焼かれたロボットについて、主人公である草薙素子とバトーはこんな会話をする。

 「行くぞバトー そいつはただのスピーカーだ 公安部が修理するさ」
 「新しい模擬人格(プログラム)を注入してか? ゴーストがないお人形(ロボット)は悲しいね」
 「特に赤い血を流す型(タイプ)はな・・・・」

 『ゴースト』と呼ばれるものを持っているか否かが人間とロボットを峻別するのだとして、その目に見えない『魂』の様なものの存在を信じる事だけが人間を人間たらしめる根拠なのだとすれば、そこに一種の心もとなさを感じてしまうのは自分だけだろうか。ましてや、本作に登場するウォーカロン達は、人工細胞で出来た「生身の体」を有している。「赤い血を流す型」どころの話ではなく、限りなく人間に近い存在である彼等をスピーカーと同列に扱う事は難しいだろう。では、彼等ウォーカロンとは人間にとっていかなる存在なのか。そして自分達人間とはいかなる存在なのか。

 ウォーカロンとは鏡写しになったもうひとつの人類の姿なのかもしれない。それを見分ける技術を研究するという事は人間とウォーカロンという存在を再定義する事に繋がって行く。

 自分達が日常で何気なく使っている「人間らしさ」とか「人間性」という言葉の本当の意味を、自分達は本当に理解していると言えるのだろうか。今はまだ人間を完全に模倣するロボットを作る事は出来ないが、本作に登場するウォーカロンの様な「人間に限りなく近い存在」が生み出される未来がやがて来るのだとして、その時に自分達は「自分達が人間である事の根拠」或いは「魂の所在」を、彼等「人の手による被造物達」に対して明らかにする事が出来るのだろうか。

 ロボットが人になるのが先か、人がロボットに近付いて行くのが先か。その答えは、意外に近い将来明らかにされるのかもしれない。

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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