誰もが自らの王であるなら・上遠野浩平『無傷姫事件 injustice of innocent princess』

 

 人の上に立つという事がどんな事なのか、自分達は理解していると言えるだろうか。
 例えば権力から切り離された象徴としての王族ではなく、施政者、統治者としての王族。王や姫と呼ばれる立場の権力者は歴史上数多くいた訳だが、権力を持っているからといって、それを自分の好き勝手に使えたかと言われると、必ずしもそうではない気がする。

 諸外国との外交や、自国の内政問題に於いて、許される選択肢というものは限られている。一国の王といえども、己の利益や欲望の充足を優先して判断を誤れば治めるべき国ごと滅んでしまう訳で、結局はその場その場で適切な政治判断を求められる事になる。それが出来なかった王は他国との争いに敗れるか、権力争いの中で求心力を失って追い落とされるか、革命の名の下に断頭台の露と消えるか、いずれその報いを受ける事になってしまう訳だが、そう考えると、人の上に立って毅然としていなければならない彼等には、自分達が時に羨んでしまう様な絶大な権力を持つ割に、自由意志で何かを決定する機会など殆どなかったのではなかろうかという気がする……とまあ、ここまで分かっていても自分の様な凡俗は彼等の事を羨んでしまう事も多い訳だが。

 権力が欲しいというよりは、影響力が欲しいのかもしれない。そして影響力が欲しいというよりは、取るに足らない存在でいる事が耐え難いだけなのかもしれない。

 例えば自分がこうして書き綴っている事も、何も特別なものじゃない。この国に、そして世界中に砂粒の数程もいる人間の中で、更に履いて捨てる程いる、ネット上に文章を書き綴っている人間の中の、下から数えた方が早い場所に自分は立っていて、こうして思った事を書いている訳だけれど、その声は小さくて、雑踏の中でかき消されてしまう程のものでしかないと思う。それは最初から無いのと大差ない呟きの様なもので、多分もう止めてしまっても、自分以外の誰かにとって何かが変わる訳でもない。それは自分の政治信条や、この国のエネルギー政策や安全保障政策に対する意見でも同じ事が言えて、自分ごときが何を意見したところで、この国の政治はそれとは関係なく流れて行く。まあ当たり前なのだけれど。

 一方で、政治家や財界の著名人、芸能人やジャーナリスト、作家といった肩書を持っている人が発する声は大きくて、自分が発する声をかき消す様に響き渡って行く。だから考えなしに発言して誰かを罵ったり、傷付けたりする「声の大きな人」を見ると、自分は思うのだ。「その貴方が立っている場所を、1時間でいいから自分と代わってくれないか」と。

 逆にそうした「声の大きな人」は、何かを言う度に言葉尻をとらえて批判してくる人間を苦々しく思っているのだろう。誤解されたり、批判されたり、恨まれたり、不愉快な思いをしながら自分の声の大きさ=責任の重さに耐えているのかもしれない。不自由で、窮屈な思いをしながら。まるで座りたくもなかった王座に座らされて、無理矢理王冠を被せられた不機嫌な王様の様に。

 存在が軽くて、自分がいてもいなくても世の中に大した影響がない事を嘆く自分の様な人間がいて、もう一方には自分が持つ影響力と重い責任に不自由さを感じている人がいる。ないものねだりの両者は硬貨の表と裏みたいなもので、「足して2で割る」なんていう解決法もありはしない。王には王の悩みがあり、凡俗には凡俗の悩みがある。言ってしまえばそれだけの、どうしようもない両者の隔たりがあるだけだ。

 マーク・トウェインの『王子と乞食』ではないけれど、もしも仮に、自分が誰かと入れ替わる事で「大きな声」を手に入れたらどうだろうと考える。

 今は小さい声で、自分の考えを誰はばかる事なくここに書いている訳だけれど、その自分の発する声が信じられない程大きくなって、例えばTwitterで呟いた一言が、信じられないレベルで拡散したり、それに対する反論が噴出したり、意図しない形での引用や誤解が生じたりする様になって、その事に対する責任を問われる立場になったとしたら。もしかすると、その時自分は責任の重さに耐えかねて、あれ程望んだ「大きな声」を疎ましく思うのかもしれない。もっと自由に生きさせて欲しいと。そして、そんな自分にばかり都合の良い考えをする人間は、間違いなく責任ある王の立場には向かない。

 王である事。姫である事。臣民が望む君主たらんとする者は、ままならない自分の立場と重責に押し潰される事無く立ち続けられる人間でなければならない。自分の自由になるものが何ひとつ無くても、誤解を受けたまま生きなくてはならないとしても、誰を頼る事も出来ない孤独を抱えて、その責務を全うしなければならない。その道程は無傷で潜り抜けられるものではないだろう。きっと誰もが傷だらけになりながら通って行く道なのに違いない。それでも彼等、彼女らは行くのだ。まるで無傷であるかの様に、毅然と前を向いて。そうする事が人の上に立つ者の責務だから。

 そして自分の傷を隠し通す事が出来ない弱い人間は――自分の様な人間は、彼等の強さを羨むばかりで、その裏側にある、自分と同じ様な傷の存在に思い至らない。人の上に立つという事は、そんな弱者の無責任さと、無理解に耐え続ける虚勢を指すのかもしれないと思う。まるで自分を傷付けられるものなどこの世に存在しないのだ、という様な。

 王は王として、姫は姫として生きるならば、凡俗である自分もまた、自分なりの虚勢を張って生きて行く事が必要なのではないかと思う。ままならない世界の有り様と、届かない声と、無力さとを噛み締めながら、それでも途中で投げ出さずに歩き続ける為に。まるで自分ひとりしか存在しない国の、無傷の王であるかの様に。

 BGM “Princess Of Light” by Robert Miles

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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No title

ああ、そういえばその施政がどんな形であるかはともかく、そんなことを言ってましたね。心の中に君臨するという王が。

> さん

こんばんわ。
上遠野浩平作品読みの方がいらっしゃると仲間を見付けた様で嬉しい限りです。

上遠野浩平氏の小説は、繋がっている気がするんですよね。いや、上遠野作品愛好家の方にとってはそんなの常識という話ですが、ここでは登場人物や世界観のリンクという意味ではなく、もっと大きなテーマが共通しているのではないかという意味で。

極論すると、上遠野浩平という作家はこれまで何十作も作品を発表している中で、繰り返し同じ事について言及しているのではないかと思う訳です。例えばそれは『人が生きて行くという事について』とか。

そんな大きな括りなら上遠野作品でなくても大抵の小説が当てはまるわ! という話ではあるのですが、上遠野氏の場合は「今この時代にいる自分達が生きて行く事について」を繰り返し語っている気がする訳です。様々な物語を通して、また様々な表現を使って、そのテーマを執拗なまでに掘り下げて行くというか、繰り返し問い続けるというか。その問いに、誰もが納得する様な明確な答えを出せた人間は恐らく誰一人いないのではないかと思いますが、問いを発する事それ自体を無駄と諦める事無く、ある意味愚直なまでに問い続ける事、そして、その時点での回答を作品の形にして自分達の前に現してくれるのが上遠野浩平という作家なのではなかろうかと思うのです。

自分達読者は作者と同じ時代を生きていて、氏が発表する作品を追いかけている訳ですが、上遠野浩平という作家が小説を書き続けていてくれる事、そして自分がそれを読み続けている事が、自分にとってはある意味生きる上での指針になっている部分があります。大袈裟な話に聞こえるでしょうが、誇張なしに自分にとって上遠野浩平氏とはそうした作家だと思うのです。

No title

よくわかります。固定読者の方々は多かれ少なかれ感じてるんではないでしょうか。

もっとも自分なんかは事において何かと裏切ってしまう人間なので、同時に後書きの決まり文句に象徴されるあのノリ、沙遊里ちゃんが言うくらいに“軽い”ことに助けられてもいるんですけどねー。多分重すぎたら付いていけなかったと思ってます。
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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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