いくつもの別れの先に・河野裕『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』

 

 今年に入ってから新しい本も何冊か買ったのだけれど、それらを読む時間が無かったり、読み終えた本の感想書きが追いつかなかったりで、もう少し時間が欲しいところ。本作も昨年には読み終えていたのだけれど、感想が書けなくて少し寝かせてしまった。

 さて、本作とも、著者である河野裕氏とも直接関係ない話なので申し訳ないのだけれど、最近好きな作家さんが米津玄師氏の曲を聴いているという事を知り、何となく自分も聴いてみたくなってCDを借りて来た。誰が言った言葉だったか、何か物語の中の台詞だったのか忘れてしまったのだけれど、『その人の好きな音楽を知る事は、その人の心の中に流れている音楽を知る事』という言葉があって、出典を忘れてしまってもその言葉だけが自分の心の中に引っかかっている。だからたまに自分はこういう事をするのだろう。だからどうした、という話だし、同じ曲を聴いたからといって自分とその人が同じものを感じ取ったり、同じ感情を共有したりできる訳ではないのだけれどね。同じ空を見上げていても、そこから人が感じるものがそれぞれ違う様に。

 その米津玄師氏のアルバム『Bremen』の中に『メトロノーム』という曲がある。男女の別れを歌った曲で、意地悪な聴き方をする人なら、「そんなに好きなら別れなければよかったのに」と言いそうな曲だと思う。出会いがあり、別れがあって、でも男の方は彼女が去った後の日々に空虚さを感じている。そして長い曲の最後は『あなたがいてほしいんだ』という言葉で締め括られる。曲の全てはその一言を言う為の前置きであって、そのたった一言をもっと早く言い出せなかった為に二人は別れてしまったのだろうとも思う。

 世の中には色々な別れがある。男女の別れもそうだし、友人や家族との別れもあるだろう。そして、それと同じ数だけ別れの曲があり、歌がある。でも自分はそうした別れの歌を聴く度に、他人との別れと同じくらい、自分との別れについて考える。同じテンポを刻んでいた二つのメトロノームが次第にずれて行く様に、自分から別れていった自分自身。また自分が切り捨てた自分自身。それらは今の自分からは酷く遠い場所にいるのに、不思議と忘れ去るという事が出来ない。

 前にASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ソラニン』という曲の感想を書いた事があって、そこでも自分は似た様な事を言ったと記憶しているのだけれど、自分自身との別れを何度も経験しながら、自分達は生きている。その別れた自分、切り捨てた自分は、普通なら取り戻す事は出来ないし、再び出会う事もない。ただ、その不可能を『階段島』という舞台を用意する事で可能にしたのが本作だと言える。

 時間の流れを止める事は誰にも出来ない。今ここでこうして文章を書いている自分も、時間が過ぎれば『あの頃の自分』になり、過去のものになって行く。それは当然の事であると同時に、悲しい事でもあるのではないだろうか。変わらない自分などというものはなくて、どんなに綺麗なまま残しておきたい感情や記憶であっても、いずれは色褪せて行く。普通の恋愛小説なら、男女が別れずに手を繋いだまま生きて行く事が出来るなら、それは間違いなくハッピーエンドだろう。けれどその二人は、本当に出会ったあの頃のままの二人だろうか。二人が一緒にいる為に、また相手の為に、自分の中の何かを捨てる事。殺す事。それは二人の本意だったのだろうか。

 現実を生きる自分達にしても、自分から捨てたものの中に、本当は大切なものがあったなんていう事はよくある話で、大抵それらはもう取り戻せなくなった頃に気付くものだと思う。別れてしまってからようやく口に出す事ができた『あなたがいてほしいんだ』という言葉の様に、それはもう手遅れで、相手の耳には届かない。失敗や別れはいつも取り返しが付かない場所から自分達を責め苛む。だからだろう。自分は本作が、最後にはハッピーエンドになって欲しいと思う。現実には取り返しが付かない事に、現実ではない物語だからこそ与えられる救いが、最後にはあって欲しいと願うから。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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