またひとつ年を取る。

 とりあえず、ある一定の年齢以上になると誕生日が嬉しくもなんともないという事はさておき、今日でまたひとつ年を取った。まあ、一年間大病もせず息災でいられた事に感謝しようと思う。

 今だから冷静に振り返る事も出来るけれど、なんていうか、思春期の自分は『自分が大人になるという事』について全く考えていなかった。それどころか、そんなものになれっこないとすら思っていた節がある。何なんだろうこの全く根拠のない確信は。
 いや、正確には大人になれないというよりも、いつか大人になる事はなるんだろうけれど、『ちゃんとした大人』としての役割は果たせないんじゃないかと思っていたんだと思う。

 自分が中学生の頃というと、尾崎豊の死があり、彼の熱心なファンだった同級生も多かった。彼等の多くは大人を忌み嫌っていたが、それは大人が用意した価値観をお仕着せられる事に対しての怒りだった様に思う。彼等にとって大人になるとは大人の価値観に染まる事であって、それは自らの考えや信念を捨てる事だった。そうやって『僕が僕であるために』もがき苦しみ『信じられぬ大人との争い』に身を置く同級生達を横目に、自分は酷く物分かりのいい少年時代を過ごしていた気がする。少なくとも表面上は。
 物分かりがいいというか、大人になるという事について『仕方ない』と諦めていたのかもしれない。

 当時の自分にとって大人になるという事は自ら積極的に選ぶものではなかった。それは外部からの圧力によって『大人になれ』と迫られるものであって、様々な責任を果たさなければならなくなるという事だった。しかもそれは避けられず、その上死ぬまで続く。
 大人としての責任とは具体的には労働だったり、家庭を持つ事だったりするのだろうけれど、労働はともかく家庭なんていう重いものを背負う自信は実は今もない。自分は昔から人間が嫌いな奴だったが、そんな奴が家庭を持つという事が許されていいものだろうかと思う。まあ当面は相手もいないし安心といえば安心だけれど。

 ともかくそうやって、同級生達の様に大人になる事に全力で抵抗する事もせず、ただ諦観してこの歳まで生きて来た自分は、世間から見れば普通の社会人で、でもどこかでまだ大人としての自分に戸惑っている。こんなのが大人面してていいのかっていう。

 往生際が悪いといえばその通り。でも自分の胸にいくら手を当ててみても、この違和感は消えてくれない。お前は考え過ぎなんだと言われればそうなんだろう。でも今の自分は本当に自分の事だけで手一杯で、誰かに差し出す手を持てないでいる。

 ・・・あー、何か来年も同じ事書いてる気がするなあ。

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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