そのエゴは本当の自分自身か?・上遠野浩平『ブギーポップ・アンチテーゼ オルタナティヴ・エゴの乱逆』

 

 以前どこかで「人間誰しも一人で生きている訳ではない」という言葉と似た様な文脈で、「個人が社会全体に与える影響は僅かかもしれないが、社会の方は個人を取るに足らないものとして放っておいてはくれない」という趣旨の言葉を聞いた覚えがある。誰の言葉かは忘れてしまったけれど。

 ではその『社会』とは誰の意志や思惑を反映して動いているのかというと、その中心に分かり易い黒幕などおらず、誰もいない中枢を取り囲む様に集まった、小さなエゴの総和が主体的な意思を持っているかの様に錯覚されているだけの様な気もする。その中には『オルタナティヴ・エゴ』と呼ばれるものもまた含まれているのだろう。そして恋心や愛と呼ばれるものもまた、言うまでもなく一種のエゴである。

 本作で織機綺と谷口正樹が巻き込まれる騒動も、ただ互いを想い合う二人とは別の、外部の人間や組織の都合でしかないのだが、彼等がいくら状況に巻き込まれる事を避けようとしても、周囲の人間のエゴがそれを許さない。二人を利用しようとする者、排除しようとする者、そして死神までもが彼等を取り囲む。ただここで気付くのは、そうして動いている周囲の人間達を駆り立てているのもまた、彼等一人ひとりにまとわり付く他者からのエゴや、それによって規定される立場や状況といったものに過ぎないという事だ。そこには完全に主体的な、独立した意思決定など無い。あの死神が自動的であるのと同じ様に。

 誰かが誰かを縛っているのではなく、誰もが誰かを縛っているという状況。誰かのエゴが別の誰かに影響を与え、まるでドミノ倒しか何かの様に自分達の所まで届き、それによって突き動かされた自分達の行動は、またエゴになって別の誰かに影響を及ぼすという、抜け出せない円環。それは時として思いもよらないものを祀り上げてしまう事になるのかもしれない。そして、それは恐らくこう呼ばれるのだろう。『世界の敵』と。

 こう書くと何だか自分達の存在が大それたものの様に思えてしまうが、有り体に言ってしまえば自分の様な凡人が社会に与える影響というものは無いも同然であり、いてもいなくても大差はない。これは卑下ではなくて、社会というものはそうでなくては困るからだ。大勢の人間が所属している社会全体が、その構成員の中のたった一人の意思決定や都合に左右され、右へ左へと揺れ動いたり、破綻したりする様な事があれば大問題になる。だから社会という大きなシステムの存続にとって、多くの人間は『かけがえのない人材』ではなく、『もし欠けたとしても代替が可能な人材』でなければならない。ただここで気を付けなければならないのは、どんなに社会に対する個人の影響力を薄めて行ったとしても、それはゼロにはならないという事だ。取るに足らない自分達の存在の総和が、この社会を、そして世界を形作っているという『責任』は、消えて無くなりはしない。

 話は変わるが、丁度今、アメリカでは大統領選挙の予備選が行われていて、共和党の候補者であるドナルド・トランプ氏の歯に衣着せぬ物言いが連日話題になっている。自分は当初、過激発言や問題発言の多さから、トランプ氏が予備戦に勝って大統領候補になる可能性は低いのではないかと思っていたのだけれど、予想以上に支持票が集まり、何だかこのまま逃げ切って党代表に選ばれそうな勢いだ。

 アメリカ国民の中にも、そしてトランプ氏の支持者の中にも「彼の発言には極端な部分がある」と認める人はいるし、暴言として紹介されている発言の全てが具体性のある政策としてまとまるかというとそんな事はないだろう。例えば「メキシコとの国境に巨大な壁を建設する」だとか。ただ民衆はこれまでの政治に対する不信感や、日々の生活で感じている閉塞感を打破してもらいたいが為に彼を勝たせている。自分はトランプ氏の様な強烈な個性を持った人間が、一般大衆の代弁者として支持され、浮かび上がって来るという事についての違和感がどうしても拭えないのだけれど、これもまたよく考えれば自分と同じ凡人達の抱える小さなエゴ、例えば今よりも豊かな暮らしがしたいとか、テロ事件によって醸成された社会不安を解消して欲しいとか、移民に職を奪われるのが我慢ならないとか、それ自体はささやかなエゴの受け皿として、彼ほど分かり易い人間がいなかったという事なのかもしれないとは思う。大富豪で、押しが強く、失言を失言とも思わず、それを責められても謝罪しない。もしも自分の身近にいたとしても絶対に仲良くなれないだろうが、この選挙における同氏の躍進を見ていると、確かに自分達の漠然とした不安感や価値観が寄り集まって、社会という大きなものを形作っているという事が分かる。それが良い事なのか、悪い事なのかは別として。

 ここで自分達が戸惑うのは、個人の存在の軽さと、それに反して自分達が行使しているらしい、社会に対する影響力との釣り合いが取れていない事だ。例えば正義感に溢れた誰かが、ある日突然に「この世界を歪めている事の責任を取れ」などと迫って来たとしても、それは言いがかりにしか聞こえないが、本当に責任は無いのかと問われれば、潔白であるとも言い難い。そんな風に考えると何も出来なくなってしまいそうだが、それでも自分達は自らの意思を貫いて行くしかない。それが単なるエゴだと知った上で。それは悪く言えば居直りでしかないのだが、たとえ誰かに責められる事が分かっていたとしても、自分達はただ蹲って膝を抱えているだけではいられない。それを生きているとは呼べないからだ。だから、「自分が歩き出せば誰かとぶつかる事」や、「自分の踏み出した一歩が誰かを踏み付ける事」を知りつつも、自分達はそれを無意識の領域に追いやって、日々歩いている。自分もまた誰かのエゴに追われる様にして。

 そうした事から離れた『自由』なるものが、果たして人間社会に存在するものかは相当疑わしい。だからこそ動物達の『無意識』をその自由になぞらえて、時に人は羨んだりもする訳だが、彼等動物こそ弱肉強食と自然淘汰という最も厳しい状況の中で生存を勝ち得ていく為に、本能という半ば自動的なものに従っている訳で、それこそ人間の懊悩など知った事かという話ではある。

 どこまで考えても結論は出ない。出ないのだが、だからといって考える事を止めようとは思わない自分の無駄な足掻きもまた、エゴなのだろう。それが上辺だけの、卑怯者の自己正当化の為の『オルタナティヴ・エゴ』に過ぎなくなってしまう時、その事に自分は気付く事が出来るだろうか。

 (ドミノ倒しの駒やジグソーパズルの1ピースが全体の責任感じても仕方ねぇだろ)
 (自分が何かのつじつま合わせだけで生きてると思いたくないんだよ……ってこれもまあ、エゴだけどさ)

 BGM “つじつま合わせに生まれた僕等” by amazarashi

 

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