博徒は弱者を顧みない・吉上亮『生存賭博』

 

 本作について述べる前に、自分と賭博との関係を述べておきたい。
 自分は賭博が嫌いだ。同様に賭博に興じている人間も好きになる事は出来ない。これには個人的な事情がある。自分の親戚には、典型的な『博打で身を持ち崩した人間』がいた。何の賭け事だったのか、最後まで当人は口を割らなかったらしいが、競馬、競輪、競艇、或いはパチンコやパチスロといった金銭的見返りを期待する賭け事に狂ったらしいその男は、当たり前の話だが収入の殆どを博打に飲まれ、借金を重ね、親族に繰り返し金を無心する様になり、最終的には離婚によって家庭を失った。

 家庭と子供という、自分の人生において最も守るべきものを蔑ろにし、一時の享楽と金銭欲の為に博徒となり、消費者金融で借金を重ね、自力で返済できなくなれば身内に泣き付くという、控え目に言っても『人間の屑』との謗りを免れない男だった。ただそうなる前の男は、自分にとっては普通の「従姉妹の父親」であり、賭博が人をこうまで狂わせるものかと、当時の自分は慄然とした。

 本作でも語られる事だが、賭博に興じる人間の思考では『自分は勝てる』という錯覚が消えない。全ての賭博に共通する事として、実際には胴元の取り分が存在し、賭け続ける事は、その胴元の取り分として設定されている割合だけ手元の金を目減りさせて行く行為に他ならない。ただ、短期的に勝った時の記憶、つまり成功体験と恍惚感で思考を麻痺させた人間は、いつかまた大きく勝てるのではないかという期待を捨てる事が出来ない。賭博を始めてからトータルでは負け越していたとしても、例えば手元の現金が数時間で倍以上になって帰って来れば、その時の快感しか憶えていないのが博徒だ。そして次もまた同じ様に勝てるのではないかと思い込み、金を注ぎ込み、結果として勝った時以上の金を飲まれ、失う。何かの娯楽に金を使うのではなく、『金そのもので遊ぶ』とはそういう事で、最後には必ず遊びでは済まなくなる。資産家や富豪ならば遊ぶ金には困らないだろうが、実際には金のない者ほど一攫千金という絵空事を信じて身を持ち崩して行く。

 貧者=弱者ほど賭けにのめり込むのは、まともな手段で大金を手にする事が出来ないからだ。どうせ当たらないだろうと思いつつ毎回宝くじを買ってみる人がいるのはなぜかといえば、「宝くじでも当てなければ一生億の金を拝む機会はない」からだ。正攻法で成功を得られない人間が、賭けに出る事で僅かな可能性に縋る。それが賭博の本質ではないかと自分は思う。

 話を本作に戻す。本作の題名でもある『生存賭博(アインザッツ・カヴァーリア)』とは、『月硝子(ディブーム)』と呼ばれる怪異を閉じ込める為の巨大な隔壁に覆われた旧市街地に競技者を放ち、人を襲う怪物を相手に誰が最後まで生き残るかを予想するという賭博だ。

 物語の舞台となるドイツの都市、ミッターラント市は月硝子の出現によって外界から隔離された。月硝子は塩の塊を獣や人の形に削り出したかの様な姿をしているが、この月硝子に傷を負わされた人間もまた塩の柱と化し、死に至る。最初は、夜明けと共に亡霊の様に消え去る月硝子を引き付ける為の囮役として志願した者達がいた事が始まりだった。それがいつからか彼等の生存が賭けの対象になり、都市を裏から牛耳るギャングが胴元として取り仕切る様になって行く。都市が閉鎖され、市民が生存の為に闇の物流に頼らざるを得ない状況に至るや、都市では全てにおいて金がモノを言う様になり、賭博は瞬く間に浸透した。そうして成立した生存賭博は、都市の財政が賭博抜きでは成り立たないレベルにまで膨れ上がる事になる。

 閉鎖都市は、入る事は出来ても出る事は許されない。外界はこの閉鎖都市の特性を利用し、犯罪者等を厄介払いとばかりに捨てて行く。またどうしようもない博徒も生存賭博で勝つ事を夢見てやって来る。借金を背負い、生存賭博の競技者として生き残る事で得られる報酬を狙うしか生きる術が無くなった者もいれば、そんな哀れな連中を賭博の対象にする富豪もいる。こうして都市は腐敗して行き、市民もまたその汚濁の中でしか生きられなくなって行く。

 この都市と完全に癒着した生存賭博というシステムの上に君臨する王に対し、矮小な存在である主人公がいかなる手段で勝利し得るか。それもまた真っ当な手段では成し得ない故に、彼女もまた自ら生存賭博に挑む事になる。賭け金は自分と仲間の命。ただそれだけで勝てる程、この賭けは甘くはない。そして都市そのものの命運さえも賭け金として上乗せした生存賭博の結果が、最後には示される事になる。

 腐敗した都市を統べる王と、都市と王に反逆する主人公の意思がぶつかり合い、どちらが生き残るか。その賭博の展開と結末は確かにスリリングかもしれない。しかし自分が感じるのは、冒頭で例を挙げた様に、基本的に自分の欲だけに忠実に生きる博徒という人種が、いかに周囲を顧みないかという事が改めて示される事の気持ち悪さであり、両者のエゴに挟まれる市民の無力さや虚しさが報われる事は恐らく無いのだろうという諦観であり、そこから抜け出したくば自らも賭博の勝者になるしかないという現実に対する忌避感だ。

 まともに生きる術を持たない人間が、心ならずも賭けに縋って生きようとする事。その弱さと愚かさは、強者にとっては唾棄すべきものなのかもしれない。しかし、現実もまたそうであったとしても、自分は弱者を踏み付けて行ける程非情になる事は出来ない。それが出来る事が強者の、勝者の条件であると言うのであれば、恐らく自分はこの先も敗者の側に立ち続ける事になるのだろう。そんな自分が賭けに出なければならない場面がもしこの先訪れるのだとすれば、その時既に自分は敗北しているのではないかと思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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