責任ある大人としての生き方・多崎礼『血と霧 1 常闇の王子』

 

 物語の舞台は地中に埋もれた巨大な巻き貝状の都市国家。血によって備わる特殊能力と、血の等級や血統によって厳格に定められた身分制度。都市の上層に住まう貴族と、最下層で喘ぐ様に暮らす貧民。『貧富も、優劣も、人生さえも血が決める』世界。その最下層で探索業を営むロイスの下に、ある少年の捜索依頼が持ち込まれる。明らかに裏のある依頼内容と、素性を偽る依頼人。やがて少年とロイスが出会う時、物語は大きく動き出す事になる。

 一読して、『大人の物語』だと思う。いや、ライトノベル的であるか否かという話ではなく、主人公であるロイスの態度や生き方が実に大人だなと思うのだ。

 最愛の妻を病で喪い、一人娘は行方不明のまま。その娘を探す為にも探索業を続けるロイスは、娘を失う事に繋がった過去の過ちを悔いている。ただ、どんなに悔やもうとも時間を巻き戻す事は出来ない。彼は大人として、自分の力で過去を精算しなければならないし、これから先も生き続けなければならない。誰もその苦悩を肩代わりする事は出来ない。人が大人として生きるという事は、きっとそうした「誰にも肩代わりさせる事が出来ない責任」を引き受けて生きるという事ではないかと思う。そして、そうした『自分自身に対する責任』と同時に、大人には『子供に対する責任』というものがあるのだろう。自分の子供だけではなく、社会の中で生きる子供達に対する責任が。

 大人が子供に対して負っている責任とは、別に養育の義務だけではない。「親はなくとも子は育つ」という言葉がある通り、子供はたくましいものだと思う。それでも大人が果たすべき責任があるとすれば、それは「子供に対して恥ずかしい生き方をしない事」とか、「この社会を担っている責任を自覚する事」なのではないだろうか。それは自分の様に未婚で、子供を持たない大人であっても同じ事だと思う。

 今となっては古い考え方なのかもしれないが、「結婚して、家庭を持ち、子供を育てる様になって初めて大人である」という価値観がある。今でこそ「結婚せず、家庭を持たず、子供も育てない生き方を選ぶ事も個人の自由であり、他人がとやかく口を挟むものではない」という意見が聞かれる様になったが、自分が住んでいる様な地方では、この価値観はまだ根強く残っている。それに則れば、自分もまだ大人とは呼べない存在なのかもしれない。しかしながら、それ相応の歳になり、世間的には大人として扱われていれば、また、先日甥の事に少し触れた様に、身近に子供がいる中で大人をやっていれば、子供達に対して無責任な態度で生きる訳には行かないという事を自覚するものだ。

 当然、大人だって誰もが模範的な生き方が出来る訳ではない。自分だって振り返れば失敗ばかりだ。とても子供に対して胸を張れる生き方をしているなんて言えない。能力にも限界があるし、理想像とは程遠い。それどころか大人になる事に失敗した子供が、何とか世間の目を欺いて「大人をやっている」だけではないかという気さえする。そして我ながら情けない事だが、その感覚は間違っていないと思う。そんな自分の中の「大人として恥ずべき部分」を自覚すればこそ、本作の主人公であるロイスが見せる「大人らしさ」に自分は感銘を受けるのだろう。それは現実に大人である自分が本来持っていなければならないもので、そうと知りつつも実現できていない生き方だから。

 少年や青年が成長して行く物語よりも、大人が大人としての責任を引き受けて生きる物語の方に感情移入する様になったのは、自分もそれだけ歳を食ったという事なのだろうけれど、本当は大人の生き方に感銘を受けている場合ではなくて、自分がそうならなければならない。それが出来て初めて、自分は本当の意味で自分自身の事を大人だと思える様な気がする。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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