その手に何かを掴む為に・長谷敏司『ストライクフォール』

 

 宇宙空間で、身長6mの人型兵器『ストライクシェル』を用いて行われる擬似戦争としての競技、それが『ストライクフォール』だ。1チーム15人編成で行われる戦闘で、勝利条件は相手チームのリーダー機を撃破する事。戦闘にはレールガンから荷電粒子砲まで、あらゆる武器が投入される。仮に機体が大破した場合でも、安全装置によって選手の命は守られる仕組みになっているが、実弾を撃ち合う競技に事故死が無いとは言えない。それでも選手達は勝利を目指す。文字通り命懸けで。そしてチームの誇りにかけて。

 主人公の高校生、鷹森雄星は、ストライクフォールのプロ選手になる事を目指している。その年子の弟である鷹森英俊は、既にプロチームの二軍でプレーする選手であり、もうすぐ一軍に上がる所だ。才能に恵まれた弟との差に焦りを感じながらも、雄星は地道な練習を積み重ねる。そんな鷹森兄弟を見守る幼馴染の白咲環は、やがて家から、そして地球から出て行くであろう雄星に対して、複雑な感情を抱いていた。9年前の宇宙船事故で両親を亡くした鷹森兄弟は、居候として白咲家の世話になっていたからだ。一つ屋根の下で家族同然に暮らした3人。一足先に宇宙に出た英俊と、今その背中を追う雄星、そして環の物語は、英俊の一軍デビューを期に大きく動き出す事になる。

 さて、普通のロボットものでは、パイロットはそれ程身体能力を鍛える事を要求されない。もちろんそれは架空の物語の中だけの話であって、現実の、例えば戦闘機のパイロット等は戦闘機動時の強烈なGに耐える為に体を鍛えているものだし、生半可な訓練では追い付かないと思うが、架空の物語では、何の訓練もしていない民間人が戦闘に巻き込まれた末、ロボットに乗り込んで実戦を経験する(しかも目覚ましい戦果を上げる)という事がままある。しかし、一種の脳波コントロールで駆動するストライクシェルは、その機体制御の為にパイロットにもまたアスリートとして体を鍛える事を要求する為、プロ選手になる為にはスポーツ選手の様なトレーニングと、それによって培われた高い身体能力が求められる事になる。

 リオオリンピックも間近に迫って来て、自分は改めて思うのだけれど、スポーツ選手が地道なトレーニングを積み重ねた末に『強さ』を獲得して行く姿には、やはり心打たれるものがある。ストライクフォールはロボットものではあるけれど、己の欠点を克服する為に練習を積み重ねる雄星の姿は、正にアスリートのそれだ。

 全ての努力が報われるとは限らない。その言い分は正しいが、しかしながら、努力をしなかった者が成功を掴む事はあり得ない。それは現実でも同じ事だ。

 前に一度書いたかもしれないが、自分はこの手の話をする時にいつも、西田敏行氏の『もしもピアノが弾けたなら』という歌を思い出す。歌の中では、好きな人に上手く気持ちを伝える事が出来ない不器用な青年がいて、「もしもピアノが弾けたなら 思いのすべてを歌にして きみに伝えることだろう」と言う。しかしその後には「だけど ぼくにはピアノがない きみに聴かせる腕もない」と続く。だからいつも伝えきれない言葉が残されるのだと。

 自分の様な人間はこの歌を聴くと、ついピアノが弾けない不器用な男に感情移入してしまうし、逆にピアノが弾ける人の事を羨んだりしてしまう訳だが、でも同時に、これは正しい気持ちの持ち方ではないのだろうとも思う。なぜならば、ピアノが弾ける人を羨む時、そこには彼等が「ピアノが弾ける人」である為にどれだけの練習と努力を積み重ねて来たのか、犠牲を払って来たのかという事に対する認識が抜け落ちている気がするからだ。

 自分の友人にはピアノが弾ける男性がいる。妹もまた、彼とレベルの差はあるがピアノを弾く事が出来る。そういう人を間近で見ていると、「ピアノが弾ける」という能力を身に付ける為にどれだけの時間を練習に捧げて来たかという事が分かる。自分を含めてピアノが弾けない人間が彼等を羨むのは勝手だが、では自分は彼等と同じだけの努力をしたのかと言われれば間違いなくしていない。それがピアノを弾ける人間と弾けない人間の差だ。そして「ピアノが弾ける事」を他の事に置き換えて行けば、何であっても同じ様に考える事が出来る。プロとアマチュアの差もそうだし、夢を叶えられるかどうかの差もそうだろう。再びピアノに例えるならば、「もしもピアノが弾けたなら」という悩みを持っていたとしても、その解決方法は「弾ける様になるまで練習しろ」という以外に無い。その過程をショートカットして成果だけを掴み取る事は出来ないのだから。

 本作『ストライクフォール』でもまた、その『当たり前の事』が当たり前に描かれる。対戦相手に勝つ事。優れた選手として認められ、プロの世界でポジションを獲得する事。それは努力無しに得られるものではない。何度敗北しても諦めずに努力を続け、自分の弱さを克服した者だけが上を目指す事が出来る。それは当たり前だけれど、一方で誰にでも出来る生き方ではない。人は弱いから。誰もが強く生きられる訳ではないから。だから自分達はオリンピックの試合を見たり、優れた演奏家の音楽を聞いたりする度に感銘を受け、彼等を賞賛するのではないか。それは彼等が結果を出した事だけではなく、その裏側にある、彼等が諦めずに積み重ねてきた努力に対する賛辞なのだと思う。自分が出来なかった生き方を貫き通した彼等に対する賞賛なのだろうと思う。

 誰もがアスリートの様に生きる事は出来ないと思う。弱く不器用な自分はきっと「もしもピアノが弾けたなら」と言って、誰かを羨む事を止められないだろう。気付けばまた卑屈になって俯いて、自分の弱さを嘆くのだろうと思う。でもその時に、こうした物語がある事が、弱った自分の背中を押してくれる様な気がする。

 その手で何かを掴み取りたければ、まず手を伸ばさなければならない。言葉にすればそれだけの事が、そんな当たり前の事がこんなにも眩しいのは、きっとその当たり前を続けて行く事の困難さを誰もが知っているからなのだろう。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon