自分達を生かす記憶・朝倉ユキト『ノーウェアマン』

 

 先日、新海誠監督の『君の名は。』を観に行った。その時も、その後で小説版を読んだ時も思ったのだけれど、自分にとってどんなに大切な思い出であったとしても、人はその記憶を留めておく事が出来ない。それはもうどうしようもない事ではあるのだけれど、それでも『忘れてしまう』という事の切なさが消える訳ではないのだと思う。

 現実に、自分はこれまでの人生の中で様々な人との別れを経験して来た。その中には死別もある。大好きだった祖母や、母方の祖父母、中学校の同級生、職場の上司。自分はもう、彼等がどんな声で話していたのか正確に思い出す事が出来ない。会話の内容や声のトーンは何となく覚えていたとしても、何気ない仕草や、正確な声や、楽しい時にどんな風に笑ったか、悲しい時どんな風に泣いたのか、そんな細部が思い出の中から抜け落ちてしまっている。もう一度会って確かめる事も出来ない今となっては、それらはもう永遠に取り戻す事が出来ない欠落だ。

 自分のこの目が観たものが全て録画される様に、この耳で聞いたものが全て録音される様になっていたら良かったのに。それがどこか自分の頭の外側にある外部記憶装置に仕舞われていて、好きな時に好きな場面を再生出来る様になっていたら良かったのに。他ならぬ、忘れてしまった自身の責任を棚上げして、自分はいつもそんな都合の良い事を考えてしまう。ふと故人の事を思い出したくなった時に。その思い出に縋りたくなった時に。

 自分は思い出に生かされていると思う。楽しい記憶だけではなく、辛い記憶や、悲しい記憶もあるが、それらを積み上げた先に今の自分の形がある事は間違いない。そして同じ様に自分もまた誰かの思い出に残っているのなら、残っていられるのなら、それもまた違った意味での希望になる様な気がする。

 でも、逆に考えてみたらどうだろう。
 自分が誰の記憶も留めておけないのだとしたら。或いは、自分以外の誰もが、自分の事を忘れてしまったとすれば。そんな世界で生き続ける事に、人は希望を持てるのだろうか。

 本作『ノーウェアマン』は、その題名の通り『どこにもいない男』になってしまったある男の姿を描く物語だ。最初は彼にもやりがいのある仕事があり、恋人や飼い犬との幸せな暮らしがあり、友人があり、趣味の仲間がおり、家族がいた。だがそれはとある病によって終わりを迎える。『ノーウェアマン症候群』と呼ばれる病。その罹患者である主人公と接触した人間の記憶から、彼の存在が消えて行くという恐怖。やがて病は彼から全てを奪い取って行く。

 飼い犬は主人の存在を忘れて吠え掛かり、結婚を申し込んだ筈の恋人までが彼を名前も知らない他人だと言う様になる。やがて職場の同僚や趣味の仲間、親兄弟までが自分の存在を忘れ去る。新しく出会った人も例外ではなく、助けを求めて駆け込んだ精神科の医師までもが患者である彼の存在を覚えていられない。『忘れられる=自分が消えて行く』という原因不明の恐怖で正気を失いながら辿り着いた先で彼に告げられたのは『ノーウェアマン症候群』という、未だ仮説の段階を出ない未知の病気に侵されている可能性と、治療法が存在しないという絶望だけだった。

 自分の存在が、この世の全ての人々の記憶に残らないのだとしたら。自分が『どこにもいない男』になってしまったのだとしたら、そこに生きている意味はあるのだろうか。

 何とか日々生活する事は出来るのかもしれない。「独りで、孤独に」という制限は付くが。ただ暮らすだけなら、作中で主人公が試みる様に、同じ職場で働く必要のない日雇いのバイトを入れ続けるのも手だ。SNSで自分の存在を発信する事も出来る。もっともそれは、誰も聞く人がいない独り言を壁に向かって呟き続ける様な無味乾燥なものになるだろうが。

 しかしそれを、『生きている』と言って良いものだろうか。

 他人に「そんな人生は無意味だ」と責められるだけならまだ良い。他ならぬ自分自身が『意味がある』と、『生きている』と思えないのなら、その人生には本当に意味がなくなってしまう。物語はフィクションだが、その恐怖には実感がある。なぜなら、自分達は既に『ノーウェアマン』になりかかる様な経験をしていて、その恐怖を、身をもって味わっているからだ。

 例えばそれは就職活動でなかなか内定が貰えずに何社も渡り歩いた末に投げ付けられる不採用通知だったり、世の中に対する自分の影響力が皆無で、自分抜きでも世の中は回っているし、これから先もそうだろうという事に対する諦観だったりする。いてもいなくてもいい人。交換可能な労働者(消耗品)。そんな風に思われるなら、扱われるなら、ここにいるのが自分でなくても構わない。他の誰かで良い。むしろ誰もいなくても良いのかもしれない。それでも世界が回って行くのなら。

 その恐怖。焦燥。皮膚の下で虫が這う様な嫌な感触。
 自分達はそれを知っている。だからこそ、『ノーウェアマン』の気持ちが分かる。分かるからこそ彼に感情移入する事が出来るし、彼に救いがあるのかどうかが気にかかる。彼に救いがあるのかどうか=自分達に救いがあるのかどうか。その事が気にかかる。

 『ノーウェアマン』の物語に救いがあるのかどうかは本作を読んで頂くとして、自分が思う事は、誰かの記憶に自分の存在が残ってくれるという事が、その当たり前が、いかに自分を救ってくれていたのか、そしてこれからの自分を救ってくれるのかという事だ。その事に対する感謝だけは、折に触れて思い出し、噛み締める必要があるのではないかと、今は思う。そう、その事すら忘れてしまう前に。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon