愛や理想という独善を胸に・縹けいか『食せよ我が心と異形は言う 2』

 

 ようやく読めた。さて、1巻で自らの全てを供物として復讐に捧げ突き進んだ、かつての『英雄』にして今や『世界の敵』である男、黒羽園。その行き着く先はどんなものになるのか。

 物語は前作同様、月白カノを救う為に黒羽がその身を文字通り削りながら突き進んで行く話なのだが、どこまでも愚直に前進する黒羽の周辺に視点を移してみると、色々と面白い気付きがある様に思う。

 まず感じるのは、敵味方に共通して言える事なのだろうけれど、人間は「何を一番にするか」、言い換えれば「誰を愛するか」を決めた時点で、その存在を脅かすであろうありとあらゆるものと敵対するしかなくなるという事だ。

 黒羽園が、月白カノを救う為にあらゆるものをかなぐり捨てて世界の敵となる事を選んだ様に、彼の敵であったある男は自らの知識欲を満たす為、そして『人類の進化』を促す為に夥しい人命を奪った。敵対する両者の行動はしかし、一歩引いてみれば同じ事だ。何かを成す為、誰かを救う為に、他の全てを(自らの存在も含めて)犠牲にする事を厭わない。全く関係の無い第三者をそれに巻き込んだとしても構わないという覚悟と独善。正義と悪の対立などそこにはない。あるのは方向性が対立するエゴのぶつかり合いだけだ。それはまるで鏡写しになったもう一人の自分と繰り広げる凄惨な殺し合いの様なものだ。

 人であれば家族でも恋人でも良いし、特定の人でなければ自分が信じる価値観や信条でも構わないけれど、そうした『譲る事が出来ないもの』を持った時、人はどこまでも独善的に、残酷になる事が出来る。言い換えればそうした存在に落ちる事を自分自身に許す。「自分のしている事が正しい」と信じて疑わない人が、時に第三者の目から見て「他人の迷惑を考えない心の狭い人」に見えるのは、彼等が信じる正しさの前ではそれ以外の全てが有象無象だからだ。実際人間の心はそれほど広くない。もっと言えば全てを平等に愛する事ができるのは神だけであって、人の心の中心にある玉座には誰か一人しか座れないのではないかとさえ思う。そこに誰かを、或いは何かを据えてしまったら、後の全ては有象無象のガラクタに過ぎない。

 そうした人の独善を簡単に悪だと切って捨てる事が出来れば苦労はないのかもしれないが、世間的には良いものだとされている愛とか恋とかいったものも当然その独善の中にあって、自分達の心中には綺麗なものも醜いものも混在している。それが行動原理となって、実際の行動として、言動として表出する時、それらは他者のそれとぶつかり合って、相手を、或いは自らを傷付ける。そうした衝突は日常の中で無数にあって、互いに譲れないものを持っているが故に、その衝突がなくなる事はない。難儀な話だ。

 さて、もうひとつの面白い気付きは、本作で黒羽が迎える結末がたまたま同レーベルから出ている吉上亮氏の『磁極告解録 殺戮の帝都』のそれと類似している事だ。譲れないものの為に崩壊と再生を繰り返しながら戦い続ける男、という構図が二人の異なる作家から出て来るというのは面白い。それはきっとパクリとかオマージュとか言われる表層的なものではなくて、同じ時代の作家が全く別の小説を描きながら類似性のある結末に辿り着いたという、動物で言えば『収斂進化』の様なものなのだと思う。

 何かヒット作が出ると、雨後の筍の様に同じ様な作品ばかりが顔を出すというのはライトノベルの公募新人賞でよくある話だというが、そうした「意図的に売れ筋を狙った結果」としての類似性ではない。作家もまた生身の人間である以上、その時代の空気に影響を受ける事はままあるのだと思うが、そうした『同時代性』の中での類似は、一体何がそうさせたのだろうという考察をしてみるのも面白いのではないかと思う。

 

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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