弱い者達が夕暮れ、更に弱い者を叩く・安里アサト『86―エイティシックス―』

 

 “豚に人権を与えぬことを、非道と謗られた国家はない。


 故に、
 言葉の違う誰かを、色の違う誰かを、祖先の違う誰かを人の形の豚と定義したならば、
 その者達への抑圧も迫害も虐殺も、人倫を損なう非道ではない。”


 物語の冒頭で、本作の主人公の一人であるヴラディレーナ・ミリーゼの『回顧録』からの引用文として示される上の一文が、この物語を通して語られる事の本質を表している様に思う。

 北朝鮮がまた弾道ミサイルを発射したというニュース速報を聴きながら、本作を読んでいた。『平和な日本』というフレーズがまだ生きているのかどうか知らないが、隣国に目を向ければまだ休戦状態のまま南北に分断された国家が互いに睨み合う現状があり、また遠くシリアへ目を向ければ、政府軍と反政府勢力がそれぞれ他国の後押しを受けて代理戦争に近い泥沼の殺し合いを続けている。そんな中、日本では南スーダンへのPKO派遣の正当性を巡って、そこで「戦闘があったのかどうか」という問題で言葉遊びの様な答弁が繰り返されている。日本政府がやっている言葉遊びは、「『人間とみなされない者』を搭乗させれば、それは自律無人戦闘機械(ドローン)である。よってドローンがどれだけ損耗しようが自国の戦死者はゼロである」という、本作に登場するドローンの定義と同程度には力技だ。

 似た様な所では、民間軍事会社(PMC)のオペレーターが現地で戦死したり負傷したりしても、それは正規軍に属する要員ではないので公の戦死者数や負傷者数にはカウントされないという、今で言うところの『オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)』にも通じる様な薄気味の悪い『事実』がある。

 これらは相手に4本の指を立てて見せ、「この指は何本だ」と問い続ける行為にも似ている。国家が、或いはそれに代わる権力構造が、4本の指を5本だと言うならば、その問いに答える者は「指は5本です」と『正しく』答えなければならない。有色人種を劣等人種であり「人間ではない、豚である」と定義する国家では、「実際には人が乗っているドローン」という矛盾がまかり通る。“豚に人権を与えぬことを、非道と謗られた国家はない”からだ。

 その『豚』の側に立たされた青年達と、後方から彼等を指揮する事を命じられた『人間』側の少女が出会う時、物語は始まる。

 かつての敵国が遺した本当の意味での自律無人戦闘機械群<レギオン>から国土を防衛する為に、豚として扱われる有色人種――本来であればかつての同胞国民――をドローンに乗せてこれに対抗する共和国と、その支配層として城塞都市に引き篭もる白系種(アルバ)。史実におけるナチス・ドイツの優生学並みの隔離政策で都市を追われ、実質、戦場以外に生きる場所を持たず、人としても扱われなくなった『豚』達は、白系種を現実を知らない『白ブタ』と揶揄する。兵器の性能においても、数においても劣勢の共和国は、その優生学的な選民思想故に現実を見る事をしない。「優良種である自分達が、劣等種である敵国の遺物相手に苦戦を強いられているなどという事があってはならない」からだ。結果性能に劣る共和国の有人機<ジャガーノート>はドローンと偽られ、国内向けにはいわゆる『大本営発表』が繰り返される。「我が方の戦果は華々しく、損害は軽微、人的損害は本日も皆無である」と。

 現実から目を逸らし、自らの人権無視を正当化し、見たいものだけを見、聞きたいものだけを聴き、信じたいものだけを信じて生きて行く事。それがいつまでも続くものではない事に薄々気付きながらも、人はそれを止める事は出来ないのか。その人間の愚かさは、かつてTHE BLUE HEARTSが『TRAIN-TRAIN』の中で歌った様に明らかだ。

 “弱い者達が夕暮れさらに弱い者をたたく”

 弱い者が、追い詰められた者が、自分達の尊厳を守ろうとして更に弱い者を探し出して叩く事を始める。誰かに石を投げられた者が、その石を拾って更に自分よりも弱い誰かに投げ付ける。今この現実の世界で移民や難民を排斥しようとしている誰かは、決して選ばれた優良種でも特権階級でもない。むしろ弱い立場の人々だ。ナショナリズムに縋り付けば、自分の自尊心は満足させられるから。自分より劣った誰かが、自分より可哀想な誰かがいる事は、報われない自分の境遇を慰撫してくれるから。

 自分達は誰でも気付いてはいるのだろう。そうした愚かな振る舞いは止めなければならないという事に。しかし、知っていてもそれを止められないのは、止めようとしないのは、社会という大きな構造が、それを是として走っているからであり、その大きな流れに個人として逆らう事が無駄だと思っているからだ。

 繰り返すが、この現実では弱い者達が夕暮れ、更に弱い者を叩く。その音が響き渡る時に、社会の中で、また世界の中で個人がどう生きる事を選ぶのか。選べるのか。選ぶべきなのか。本作はその事を自分達に問うている。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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