心に爪痕を残す様に・葦舟ナツ『ひきこもりの弟だった』

 

 最初に書いておく。読書に「清々しい読後感」を求めるなら、本作は全くそれに向かない。正直、本作を読み終えて、自分はどうしようもなく暗い感情が湧き上がって来るのを感じている。誤解がない様にこれも最初に書いておかなければならないだろうが、本作において希望は示される。ただその示される希望は、淡く、遠く、自分にはそこに到れる気がしない。

 全ての物語がハッピーエンドである必要はないと思う。それに、何をもってハッピーエンドとするか、バッドエンドだとするかは人それぞれだ。ただそれでも、多くの読者が素直に願うハッピーエンドの形というものはある。ひとつの物語を経て、登場人物が幸せになる事。そのきっかけに至る事。希望を、見出だせる事。それらが叶えられているかどうかを、読者は読み解く。感じ取る。

 この物語の結末をハッピーエンドだと受け止める読者は、きっと少ない。一読して、自分が最初に感じたのは、最後の最後に突き放された様な感覚であり、唐突さであり、やるせなさだった。と同時に、自分はこの物語の主役である男女に、少なからず感情移入していたのだという事に気付かされた。

 ひきこもりの兄を持つ弟として、兄の影を引きずる様に生きて来た青年がいる。

 そんな見知らぬ男と出会い、即座に結婚を決め、夫婦になる事を選んだ女性がいる。

 二人は夫婦として暮らし始める。彼氏彼女の付き合いをする事もなく、唐突に、何かの契約の様に始まる結婚生活は、互いの生活を変えて行く。お互いが相手の心に触れる。干渉する。引っ掻き傷を付けて行く。その中で過去の記憶が蘇る。青年はひきこもりの兄と、その兄の肩を持つ母親との記憶を反芻する。そこには確執があり、憎しみがあり、怒りがあり、恨みがあり、呪いがある。血の繋がった兄に対して、その死すら願う。自分を産んだ母親に対して、今の自分を育てた家庭に対して、『普通』である事を奪われた弟が抱く感情はどれも暗く、呪わしい。そんな負の感情、人間が抱く暗い部分が、一見幸せな現在の夫婦生活を描く中に挿入される。その暗さと暖かさの対比。冷たさと温もりの対比が鮮やかで、目を奪われる。

 本作に関する感想を書く時に、自分は最初、『自分語り』をしない訳には行かないだろうと思っていた。「自分がどの程度どうしようもない人間で、だからこそ本作のどの部分が自分に刺さったのか」という様な。でもそれは止めておこうと思い直した。それは人間一人が抱えている暗い部分を吐露する事になるし、全てを吐き出すにはとても長い文章を書かねばならなくなる。そしてそれは、自分以外の誰かが目にしたとして、何の価値もない。プラスに働かない。ただ他者の気を沈ませ、不快にさせるだけになるだろう長文を吐き出すのは単なる自己満足であり、言ってしまえば排泄と同じだ。

 その代わりに何を書けば本作について語る事が出来るだろう。そう考えた時、自分が思い出したのは、新海誠監督の『秒速5センチメートル』を観た時に抱いた感情だった。

 あの物語がハッピーエンドと言えるのかどうか。その事を自分は随分と考えた気がする。確かに希望は示される。でもそれは本作『ひきこもりの弟だった』に込められたそれと同じ様に、淡く、遠く、分かり難い。

 今になって、同じ新海誠監督の『君の名は。』を観た後で思うのは、自分が求めていたのは――誤解を恐れずに言えば――もっと陳腐な、分かり易い、手垢に塗れた様なハッピーエンドだったのだろうという事だ。それは本作に対しても同じ事が言える。作者がこの物語に込めた希望は、最後に語られるそれは、酷く分かり難いからだ。それを感じ取ろうとするには、読者の側が埋めなければならない行間が余りにも多い。

 もっとおとぎ話の様に、例えば『Happily ever after』と言って締め括られる様な物語であれば、更に多くの人が素直に共感できる物語になっていただろう。本作がそれをしなかったのは、選ばなかったのは、本作が読者の心に爪を立てる様な、引っ掻き傷を残す様な物語である事を志向したからなのではないかと思う。もし本当にそうなのだとすれば、その試みは成功している。

 傷を付けられた場所からじくじくと痛みが広がる様な、そして溜まっていた膿が滲み出して来る様な感覚がある。自分の中の暗い部分を掘り起こされる様なそれを、不快と感じる事もある。ただ小説の存在意義のひとつが『読者の心を揺さぶる事』なのだとすれば、本作は間違いなくそれに値するのだと思う。

 揺さぶられた自分の心の中から何を掬い取るのか。それは読者の側に委ねられている。その事について思う時、この物語の結末が、また違った景色を伴って見えて来る気がするのだ。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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