多分どれだけ『特別』を手にしても・上遠野浩平『騎士は恋情の血を流す』

 昔から『特別』になりたいと願って来た。

 どれだけ昔からかと言えばもう物心付いた時からだった様に思う。普通であることが嫌だった。凡人である事が耐え難かった。どんなに足掻いても先が見えている様な暮らしを続けたくはなかった。当時の自分の目には、『普通』に生きている多くの大人達の姿が皆つまらなそうに、或いは辛そうに見えた。それでも彼等が生きて行ける事を凄いと思ったし、同時に自分には真似出来ないと思った。自分にはとてもそんな根性や忍耐力や気力はないと思った。
 どれだけ必死に前進したつもりでも、多分自分はどこにも辿り着かずに、その途上で死ぬんだろうと思った。それは想像ではなく確信だった。もっと言えば歴史的に見ても大多数の凡人はそうやって生き、死んで行くのだという客観的事実があったし、それを知ってなお自分だけは違うんだと思い込める程の自信は遂に持てなかった。

 それに引き替え、空想の世界は素晴らしい。そこには現実にはない『特別』が溢れていて、自分はそれにのめり込んだ。例えば小説とか漫画とか。自分にもある日突然に物語の主人公の様な特別な力が備わったとしたらどんなにいいかと思った。
 物語は様々な『特別』を用意してくれる。いわゆる超能力から、不老不死や魔法の様なものまで幅広いが、今日まで同種の物語が廃れるどころかその数を増やし続けている事からして、皆がどれだけそれを望んでいるのかがわかるというものだ。

 例えば『ジョジョの奇妙な冒険』を読めば、読者は自分にもスタンド能力があればなと思うし、『DEATH NOTE』を読めば自分だったらノートに誰の名前を書き込んでやろうかと空想する。『ハリーポッター』を読めば読者はハリーに共感し、もしも魔法が使えたらと思う。それらは自然な事だ。誰もそれを責める事は出来ないと思う。だってその空想はとても素敵だ。皆が望んでいる事だ。

 ただ上遠野浩平は、そんな『特別』を殺して回る。

 皆本当は気付いている。もし本当に特別な力なんてものが手に入ったとして、果たしてそれで自分は幸せになれるのか?満たされるのか?その問いの答えが否であると気付いている。
 例えば今、何か神様の気紛れで、『君に何か一つ特別な能力をあげよう』と言われたとして、果たしてどんな力を望めば自分は幸せになれるのか?必死に考えてはみたけれど、そんなものに答えが出る筈もない。多分自分だったら、得た力に付随する責任や義務や精神的負担に押し潰されるだけだろうし、もしかするとそんな力を持ってしまったが為に見えなくなるものもあるかもしれない。
 少なくとも、『今の自分』なんていうちっぽけな存在にそんな大きな力を無理矢理付加したら、きっとその前後で自分は全くの別人になってしまうだろう。その思考も、自我も洗い流されてしまうに違いない。なんだ、それって結局死ぬって事じゃないか。

 だから自分は今こうして『凡人』なんていう言葉を冠したブログを書きながら、何とか生きているんだろう。凡人として。特別ではない者として。時には誰かを羨む事もあるし、逃避したくもなるけれど、それでも最近は不思議と『悪くない』と思える。やっとそう思える様になって来た。

 本を片手に、自分はもう少し『凡人』を生きて行く。生きて行こうと思う。

 

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon