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静かな怒りを燃やし続けて マーガレット・アトウッド:著 斎藤 英治:訳『侍女の物語』

 

 最近、大人があまりにも幼稚な振る舞いをするのを見るにつけ、自分にしては珍しく怒ったり落ち込んだりと気持ちの上で忙しかった。端的に言えば、自分はこの世の中はもう少しまともだと思っていたのだけれど、その期待は裏切られたらしい。

 自分には「きちんとした大人になる事が出来なかった」というコンプレックスがあって、当然それは自分の中の「こうあって欲しい大人像」というものと自分が乖離しているから生じる気持ちなのだけれど、こうも大人が(それも社会的な地位も名誉もある大人が)情けない姿を晒してしまうと、もしかしてちゃんとした大人などというものはこの世には存在していなくて、自分はただ自分勝手に抱いた理想が裏切られた事に憤っているのかもしれないとは思う。

 人間は生まれながらに善であり、時に誘惑に負けて悪に落ちるものなのか、それとも生まれながらに悪であり、放っておけばどんどん堕落してしまうので、不断の努力で理性や善性を保っているのか。今は後者である様な気がしている。

 人間の本質が『悪』だとして、(まあこの悪というのもどんなものを指して悪というのかが難しいのだけれど)例えば身近な所で日常的に行われているセクハラやパワハラといった権力の濫用もその悪の一例だろうし、様々な差別意識やモラルハラスメントの類もそれに当たるのだろうけれど、それらが日常の中にはびこっているというのは、何もそれを行う側が意図的に相手を痛めつけてやろう、傷付けてやろうと「意識して行っている」からではなく、むしろ自然に、何の悪気もなく、「無邪気に」行っているからだろうなと思う。むしろ「良かれと思ってやっている」という気もする。そうする事が世の中の為であり、国益であり、正しい事であり、つまりは『善』であるという思考の結果が、あらゆる『悪』に繋がって行くというのは、何だか人間というものの業の深さを見せ付けられる様で息苦しい。

 自分の行いは本当に正しいのか。

 それを自ら疑ってかかるというのは苦しい事だし、愉快な事ではない。でも、自分に対するそうした『疑いの目』を捨ててしまった時、人間が本来持っているべき倫理観といったものは容易に損なわれてしまうのだろう。本作『侍女の物語』の様に。

 本作では様々な要因から「健康な子どもを出産出来る女性が限られる社会」という架空の未来史を設定し、その中で主に女性がどんな生き方を強いられて行くか、そして男性がそれにどう関与して行くのかが描かれる。

 まず、女性の権利が徐々に削ぎ落とされて行く。例えば全ての女性はある日突然に雇用主から解雇通告される。そして自分名義の口座は凍結され、配偶者がこれを管理する様になる。次には健康な子どもを身籠る事が出来る女性が選別され、それまで一緒に暮らしていた夫や子どもと引き離されて、子を儲ける事が出来ない特権階級の家庭に『侍女』として配属される様になる。侍女の役目は、高官達の妻の代わりに子を産む事だ。そして子を産む能力が無いとみなされた女性や、従順ではない者、また反体制派と繋がりがあると目された者は過酷な強制労働が行われるという『コロニー』に送られて行くか、或いは絞首刑にされる。

 主人公はとある高官の侍女として彼と性交をする事を求められる。その行為には愛情も快楽も存在しない。義務的に、事務的に、高官の妻に監視される中で行われる「それ」は、女性が自由にパートナーを選んで行っていたそれとは当然違うし、かといって犯罪行為として行われる強姦でもない。侍女達は仕事として、日々の生きる糧を得る為に、自分の社会的地位を守る為に、男性の、或いは国家というシステムの所有物として扱われる事を自ら選ばなければならない。当然他の選択肢など存在しない訳だが、その「選択の余地がない選択」を女性に強いて行く過程が妙に生々しい。

 本作はディストピア小説とされる。そして大抵のディストピアがそうである様に、社会をその様に構築している側は、つまり男は全くの正気で、むしろ良かれと思ってそれを行っている。女性の社会的自立を妨げる事も、それこそ『産む機械』発言ではないけれど、女性の役割は「子を孕む事」であると定める事も、当然の事として行われて行く訳だ。他にも女性の衣服に制限をかける事はむしろ女性を守る為だとされるし、男性にしても誰が子を持つ権利を有するかを国家が統制する事は当然の事だとされる。社会的地位が低い男性や反体制思想の男性は、子を持つ権利を間接的に奪われる訳だが、それは結果的には断種と同じ事だ。断種は言うまでもなく「人道に対する罪」であるが、国家それ自体が断種行為を是とするならば、それを裁く者はいなくなる。

 『正気』によって下されて行った判断の数々が、結果として巨大な『狂気』の構造を形作って行くこの過程は、男女の性差や価値観の違いといった小さい原因から生じているのではなくて、人間というものがそもそも『邪悪』だからなのではないかと思わせる。邪悪という言葉が悪意に満ちているというのであれば『無邪気』と言い換えてもいい。人は自分が思う程には正しくもないし正気でもない。その事に自覚的でないと、自分達は容易に選択を誤るし、誰かを傷付ける。それも致命的に。

 セクハラやパワハラといった言葉がニュースで流れる度に、自分達は何だかそれに慣れてしまって、何が起きても驚かなくなり、憤らなくなってしまっている様に思う。それは「あり得る事」であり、「仕方のない事」に成り下がってしまっている。じゃあ自分がこの間日大に対して思いをぶち撒けた様に、ただ単なる怒りを勢いに任せて書き殴れば良いのかというと、そうでもない。それはただ単に個人のストレス発散以上の意味を持たないし、自分もその事を反省しなければならない。

 きっと社会に必要なのは「静かに怒り続ける事」なのだろう。

 世の中に蔓延っている不正や差別といったものに向き合い、正しく怒り、それを本作の様な形に昇華して広く世に問うて行くという事。怒りを爆発させるのではなく、その静かな怒りの炎によって言葉を鍛造し、鋭く研ぎ上げ、世に斬り込む事。そうした冷静さが、静かな怒りがある事が、きっとこの世界を、社会を、昨日よりはマシなものに作り変えて行く。

 自分が今感じている怒りは、憤りは、理不尽さは、本当に仕方がない事だろうか。その怒りは、消してしまうべきか。そして怒りを燃やし続けるならば、それによって自分はどんな言葉を発して行くべきなのか。本作は広く人々にその事を問うている様に思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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