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人の再生の物語として・黒澤いづみ『人間に向いてない』

  

 書店で本を選んでいる時、不意に買う予定のなかった本に吸い寄せられる事がある。本作もそんな本だった。

 顔が溶け出した様な母親が、これもまた体が溶け出している子どもを抱きかかえている様に見える表紙。『人間に向いてない』という飾らない題名。帯にある「ある日、息子が虫になりました。」という書き出しで始まる文章。これは何だろう、と惹きつけられる何かがあった。

 本作では『異形性変異症候群』という病によって、人が一夜にして異形の存在に変質してしまう様になった世界が描かれる。カフカの『変身』を、虫になってしまった青年の視点ではなく、彼の家族の側から描いてみせる様な物語だ。

 『異形性変異症候群』は人を異形の存在、有り体に言えば化物の様な姿に変えてしまう。ある者は人の顔を持った犬の様になり、またある者は人間の目玉を持った魚の様になる。葉の代わりに人の指を茂らせた植物の様になってしまう者もいるし、芋虫の様な姿になってしまう者もいる。

 体の構造が人間とはかけ離れてしまっているからなのか、変異者の多くは言葉を発する事が出来ない。変わってしまった彼等の中に、姿形が変わる前と同じ心があるのかどうかは推し量れない。何よりその外見の気味の悪さから、当初はそれが家族の変わり果てた姿とは気付かれずに殺害されてしまうケースが相次ぐ事になった。やがて政府は、この病によって変異してしまった人間を法的には死亡したものとして扱い、全ての人権を停止する事を決める。だから変異者を殺しても罪にはならないし、扶養する義務もない。

 社会がパニックに陥る寸前で持ち直したのは、この病が若年層、特にニートや引きこもりといった背景を持つ者の間にだけ発症するものだという事がわかってきたからだった。多くの人にとってこの病は「自分とは関係がない」と切り捨てられる類のものであり、中には結果として社会的弱者を『間引く』事になったこの病の発生を「因果応報であり、天の配剤だ」と喜ぶ者さえいた。

 では、変異者本人にとって、そしてその家族にとって、この病とはいかなるものなのだろうか。本作は引きこもりの息子が芋虫の様な姿に変異してしまった、ひとつの家族の姿を追う事で、それを丹念に描いて行く。

 身内から変異者を出したと知られる事は、自分達が「失敗した家族」である事を衆目に晒されるのと同じなのかもしれない。問題のある家族を抱えていたという事。そして変異するまで救う術を持たなかったという事。そして物言わぬ変異者は、その事を責めている様にも思える。だから多くの家庭では、変異者を保健所に引き渡す。または育てきれなくなったペットの様に野山に捨てる。変異者に人権はないから。彼等はもう死んだものとして扱われるのだから。厄介者の存在を捨てて、人生を、家族をもう一度やり直すチャンス。そう捉える者がいたとして、誰がそれを責められるだろうか。

 でも一方で、そんな割り切り方が出来ない者もいる。化物の様な姿になってしまっても、息子を、娘を捨てる事は出来ないし、保健所に引き渡して『処分』してもらう事も出来ない。まして自ら手を下すなど。ならば、どうしたら良いのだろう。

 変異者の家族は、彼等が変異してしまった事で、あらためて我が子の、そして家族の問題に向き合う事を迫られたのだと言える。引きこもりの我が子がいつか立ち直るのを期待して、干渉を避け、ただ食事を部屋に運ぶ様な暮らしを続ける事はもう出来ない。彼等が本当は何を考え、どんな悩みを持ち、何に苦しんでいたのか。どうしてその悩みを我が事として共有する事が出来なかったのか。自分は失敗したのか。失敗したのだとしたら何が悪かったのか。そして、今からやり直す事は出来るのか。失われた信頼関係を、もう一度築き上げる事は可能なのか。

 本作はそうした事を考える為の寓話なのだろうと思う。そして、「強者による弱者切り捨て」ではなく、「弱者による弱者切り捨て」が起こり始めているこの国の行末に警鐘を鳴らすものでもあるのだろう。

 自分の様な、中流より下に位置する暮らしぶりをしている人間が、例えば生活保護に頼って暮らしている様な人を見て「自分はこんなに苦労して今の生活を維持しているのに、なぜ何もせずに食べて行ける様な人がいるの?」と思ったとする。正直、自分もたまに思う。冗談半分でではあるけれど。それは「自分も誰かに助けて欲しい」という気持ちが負の方向に裏返って、自分も働かなくて食べて行ける身分になってみたい=親に食べさせてもらえるニートや国に食べさせてもらえる生活保護受給者は、何の努力もせず、種を蒔かずに実を食べるばかりでずるい、という短絡的な思考に陥るからだ。

 「こいつらさえいなければ」
 「この世から消えてくれれば」

 自分の人生の足枷になっている奴に消えて欲しい。そうすれば自分は楽になれる筈だから。

 この考えは、結論から言うと間違っているのだけれど、理屈としては一見正しそうに見えて共感を集め易い所が非常に質が悪い。屁理屈に見えない屁理屈とでも言うのだろうか。ただそれは、自分が社会的弱者に日々どんな視線を向けているのかという事を端的に示すものでもある。これではどっちが『化物』なのか分からない。

 そしてもうひとつ、自分の様に自分自身を『人間に向いてない』と思う事がある様な人間にとって、変異者の姿と彼等が抱えている苦悩は身近なものだ。実感を伴ったものとして、自分は本作を読む事が出来る。ただ、たとえ人間に向いていないとしても、自分はこれまでもこれからも人間でいるしかないのだ。いっそドロップアウトしたい。消えてしまいたいと思っても、その願いは叶わないし、叶えてはいけない類のものだろう。ならばどうするか。再生への道を見付けるしかない様にも思える。

 再生とは何か。例えばそれは社会の再生であり家族の再生なのかもしれない。個人の自己実現や、自己肯定感を取り戻す事も一種の再生だろう。そして、それらは『人間関係の再生』というテーマに繋がっているのだろうと思う。本作の様に、人間が人間でなくなってしまう様な事態にならなければそれに気付けないのか、やり直せないのかと問われれば忸怩たるものはあるが。

 人間に向いていない自分は、ある日突然どんな変異者になるのだろうと考える。そしてその時、誰が寄り添ってくれるだろうか。薄気味悪い姿になった自分を捨てずに、手を差し伸べてくれる誰かはいるだろうか。そして自分もまた逆の立場であれば誰かに手を差し伸べる事が出来るだろうか。そうした事を思いながら目を閉じる時に、人間に向いていない自分でも、まだ人間でありたいのだなという事に気付いたりもする。目を開けた時に、毒虫に変わっている自分を見付けたくはないから。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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