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新潮45問題(1)・杉田水脈氏から小川榮太郎氏まで「リベラル系メディア批判の度が過ぎる」

 ここは政治について語るブログではないのだけれど、最低限この問題については言っておかなければなるまいと思うので書く事にする。

 言論の自由、表現の自由といったものは確かに誰にでも認められなければならない権利だが、それがただ誰かを罵倒する為のものであったり、差別的であったり、相手を不快にさせたり、もっと言えば精神的に傷付けるだけのものであったりした場合、その言説はカウンターとしての批判を甘んじて受け入れるべきだろう。何の事かと言えば、杉田水脈氏の論考に端を発した『新潮45』の問題である。

 杉田水脈氏の『「LGBT」支援の度が過ぎる』と題された論考が世に出ると、たちまち批判に晒される事になった。

 “例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです”

 この「子どもを作る事」と「生産性」を結び付けた事、そして生産性のない人間に税金を使うべきではないという姿勢があたかも弱者切り捨てや優生思想を思わせるという事が批判の要因ではあるのだが、これら批判に対してのカウンターが新潮45・2018年10月号の特集記事である『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』である。この特集に寄せられた論考の中で、主に小川榮太郎氏の『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』と題されたものが余りにも差別的かつ偏見にまみれているというので再炎上した訳だが、一読してさもありなんという感じがした。言葉の選び方が雑であり、読む者に不快感を抱かせる悪文の典型だったからだ。

 杉田論文に対する批判をかわす為の主張として「『生産性』という言葉だけをクローズアップして叩くのは『言葉狩り』である」というものがあるのだが、この「言葉狩り」という言い方が自分は嫌いだ。揚げ足取りをするな、全体を見ろ、という事なのだろうが、失言を批判された際に「言葉狩り」と言って居直る事が許されたら、世の中は他人を傷付ける言葉で溢れかえってしまう。言葉狩りを主張する前に自分が発した言葉が相手にどう受け止められたのかを自省するべきであろう。

 そして、「言葉尻をとらえて批判するな」という事なので、文脈を整理してこの問題について書いておこうと思う。その軸は「リベラル系メディアと保守派の深刻な対立」である。ここでのリベラル系メディアというのは保守派から見た場合という事にしておこう。


 <杉田水脈氏と朝日新聞の因縁>

 そもそも『「LGBT」支援の度が過ぎる』は『日本を不幸にする「朝日新聞」』という特集に寄せられたものだ。この通り、最初はメディア批判がメインの論考だったのであり、LGBT問題はメディア叩き=朝日新聞叩きの材料に過ぎなかった。なぜ杉田氏が朝日新聞を目の敵にしなければならないかというと、それは『従軍慰安婦問題』に端を発する。

 日韓の間で問題化している従軍慰安婦問題だが、そのきっかけとなった吉田清治氏の著作『朝鮮人慰安婦と日本人』や、氏の発言内容を繰り返し報じたのが主に朝日新聞であった。ただ、結論から言うとこの「吉田証言」は正確性を欠いた内容であり、創作も含まれるなど、事実の裏付けが取れない虚偽の内容であった。しかし朝日新聞は記事の訂正や取消、謝罪を行わず、結果として朝日新聞による慰安婦報道の取消が行われたのは2014年であった。

 『記事を訂正、おわびしご説明します 朝日新聞社 慰安婦報道、第三者委報告書』

 ただその頃には時既に遅く、従軍慰安婦問題は国際問題化されてしまっており、昨今報じられる各国に飛び火する少女像の設置問題等でも分かる様に、日本の国際的な信用、評価は毀損されてしまっていた。ここに、保守派とリベラル系メディアの根深い対立がある。

 従軍慰安婦報道だけではなく、政治家の靖國神社参拝問題等でもリベラル系メディアは批判的な報道姿勢によって外交問題化させてきたではないか、というのが保守派の主張であり、「火の無い所に煙は立たない」と言うが、言ってみれば「火の無い所に煙を立たせようと放火して回っている」のが朝日新聞に代表されるリベラル系メディアではないのかという批判が繰り返されてきた。その朝日新聞批判の急先鋒であったのが杉田氏である。

 杉田氏から言わせれば、LGBTの権利を守らなければならないというメディアのキャンペーンは、裏を返せば「日本はまだLGBTに代表される少数派の人権を守ろうという意識が低い国ですよ」と諸外国に喧伝されているに等しく、「リベラル系メディアがまたありもしない人権問題に火をつけて日本の国際的信用を失墜させようとしている。阻止しなければ」という事になる。だから以下の様な発言が出る。

 “しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。”

 これは、明確に「火消し」の意図を持った発言である。従軍慰安婦問題の様に大きな炎になる前に、自分が火消しをしなければならないという使命感が言わせている訳だが、問題は、「では本当に日本に人権問題は無いのか。差別は無いのか」という事だ。


 <「ありもしない差別」扱いされた当事者達の反論>

 杉田氏は「従軍慰安婦の強制連行など存在しなかった」「日本人が慰安婦を性奴隷として扱ったなどという事実はない」という論調そのままに「LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか」と言い放った訳だが、ここで問題なのは、実際に虚偽証言が発端であった従軍慰安婦問題と、事実そこに存在している様々な人権問題とを同列に扱った事である。

 日々差別意識を向けられていると感じているLGBTの人々はもちろん、自分同様、子どもを持たない生き方をしている人や、例えば相模原障害者施設殺傷事件の犠牲になった、社会福祉に頼って生活している重度の障がい者等にとって、「生産性」という言葉が無造作に投げ込まれ、「生産性の有無を尺度に公費を使うべきか判断するという姿勢を他ならぬ与党議員が見せた事」は、恐らく杉田氏本人が全く想定していなかった大きな批判を引き出す事になった。

 今そこにある問題や差別の渦中にいる人々にとって「そんな問題などない」と言われる事の絶望感は筆舌に尽くし難いが、杉田氏が迂闊だったのはよく調べもせずに「リベラル系メディアが言っている事なんて虚偽に決まっている。リベラル系メディアは日本の国際的評価を落とす為に活動している売国奴の集まりだ」とでも言う様な、言ってみればアメリカのトランプ大統領が自身に批判的なメディアを片っ端からフェイクだと決め付けているのと同じレベルの批判に基いてこの論考を書いた事だ。

 杉田氏が、従軍慰安婦問題で朝日新聞との間に出来た遺恨にとらわれる事なく、ひとつひとつの報道内容に対して精査する事ができていれば、今回の批判は起こらなかっただろう。そしてこの「リベラル系メディアと保守派の深刻な対立」の先に、杉田氏より更に酷い小川榮太郎氏の論考が登場する事になる。なぜなら彼はその著書『徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』の内容が名誉毀損にあたるとして、朝日新聞社から損害賠償訴訟を起こされているからだ。

 『小川榮太郎氏ならびに飛鳥新社に対する訴訟提起について』

 そして杉田水脈氏と小川榮太郎氏といえば、『民主主義の敵』というそのものズバリの対談本をこの7月に刊行している様なのだが、ここまで来ると新手の炎上商法かと疑いたくもなってくる。第1章からして「左翼メディアに異議あり!」とか狙い過ぎだろう。「問題があるからメディア批判する」のなら良い。ただそれが「メディア批判の為によく調べもしていない問題に口を挟んでくる」様になったら問題の当事者にとってそれは迷惑だ。日頃野党について「批判の為の批判に終始している」と主張している保守派の論客なら、それがどれだけ害悪か分かっている筈だ。

 どんな立場で、どんな論考を発表するのもいい。その自由は誰にでも保証されるべきものだ。ただ、「声が大きい」人間が大声で何かを主張する時に、かき消されてしまう小さな声がある事をわきまえて喋って欲しい。その発言内容で傷付く人間がいるかもしれない事を、どうか頭の片隅にでもいいから入れておいて欲しい。自分の正しい主張を誰かに聞いて欲しいと思うのなら、相手を不快にさせる口汚い罵り方をそのまま紙面に書き起こした様な雑な論考を発表するのではなくて、推敲を重ねるという事を覚えて欲しい。『愛国無罪』を常日頃批判しているのだから、それは自分達にも当てはまるのだという想像力を働かせてもらいたい。これらはそんなに難しい要求なのか、というのが偽らざる自分の感想ではある。

追記:新潮45問題(2)・本当に議論されるべき「生産性」とは何か

テーマ : 人権
ジャンル : 政治・経済

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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