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新潮45問題(2)・本当に議論されるべき「生産性」とは何か

 個人的な事なのであまり公にするものではないと思うが、昨年に転職した事で障がい者福祉の分野と繋がりを持つ事になった。普段政治問題や時事問題を取り上げているブログでもないのに、なぜ自分が前回の記事を書いたのかと言えば、その理由の半分以上は「重度知的障がい者とその家族の様な、自分達から声を上げる事が出来ない人々」の主張が、ただ声が大きいだけの論客の雑語りにかき消されていく様が許し難いからだ。

 常日頃言葉遣いが荒くならない様に気を配っているつもりだが、この問題について自分は珍しく怒っている。激怒と言っていい。

 2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件は世間を震撼させた。しかしその後の検証報道が十分行われたとは言い難いと自分は思っている。事件当時自分はまだ前職にいて、障がい者福祉のしの字も知らなかった自分は、今になって当時の異常さを振り返っている。

 思えば犯行に及んだ植松聖個人の異常性ばかりが報じられた事件だった。ただ自分が恐ろしいと感じたのは、一部の人間がネットの匿名性を利用して彼の犯行を「よくやった」と称賛していた事だ。

 高齢化社会になり、働き手である現役世代が減少して税負担が増える一方、社会福祉にかかる支出が増加している事は由々しき問題ではある。そうした流れの中で「これ以上の負担は背負えない」という本音が、様々な場所から噴出している気がする。
 生活保護費の不正受給等、批判されるべきものもある。ただその他にも、例えば「死刑廃止論者は死刑囚を生かしておく為の公費を全額自己負担してから言え」とか「植松は自分達に出来ない事をやってくれたのだ」という様な、「公費支出を減らす=自分達の負担を減らす為には切り捨てるべきはどんどん切り捨てろ」という暴論を支持する層が一定数存在する事もまた浮き彫りになった。正に前段で杉田水脈氏が雑に扱った「生産性の有無による差別」という問題が、障害者福祉の分野では2016年からずっと危惧されていた訳だ。

 生産性のない者=子どもを産まない者・自身が収める税よりも福祉として受け取る金額の方が大きい者は、社会のお荷物であるとでも言うかの様な風潮は、少なくとも障がい者福祉の世界では「植松聖個人の異常性に見えていたものは、本当は広く大衆の中に存在する差別意識なのではないか」という危惧を持って受け止められていた。次に排斥されるのは自分達なのではないか。第二、第三の植松が現れるのではないか。そんな恐れで張り詰めていた所に、無造作に「生産性」という言葉を投げ入れてきた事。それこそが杉田水脈氏が受け止めるべき批判の本質であり、自省を求めたい点である。

 そして杉田氏が発したメディア批判の流れを引き継いで氏を擁護する為に現れた小川榮太郎氏は、本来杉田氏にとって「メディア批判のついで」だったLGBT問題に直接火をつけに来た点で更に悪質だと言えるが、こちらは引用や書き起こしをするのも気が滅入るので要約する。「LGBTとは伝統保守主義者からすればふざけた概念」という主張がそれであり、わざわざ公に取り上げる程の問題ではなく、言ってみれば「ずっと表に出ずに引っ込んでいろ」と言いたい訳だ。氏の言葉を借りるなら「人間ならパンツは穿いておけよ」という事になる。恥部は表に出すな。隠しておけ。そう言っているとも取れる。

 小川氏がそんな主張を展開できるのは、自身が多数派であるという揺るぎない自身の現れだと思う。性的指向においても、言論空間であっても、自分は多数派であるという安心感が氏の言葉を選ばない雑な文章から伝わって来る。自分が多数を占めている側に立っていると思えばこそ、また自分の主義主張の正しさを信じて疑わないからこそ、「伝統保守主義者」などという事を言ってのける訳だ。

 自称多数派、自称伝統保守主義者がそうした雑語りを大声でする一方で、少数派の声はかき消されて行く。社会福祉に支えられて生きている人々が大きな声を上げられないのは、仮に現行の社会制度に何らかの問題があるのだとしても、自分達がそれに支えられて生きている事を知っているからだ。謙虚にじっと耐えている誰かの姿を、伝統保守主義者様は少しでも想像してみた事があるのか。仮にこの国に未だ解決されない人権問題が横たわっているのだとしたら、それを解決できなかった、或いは放置してきた責任の一端はこれまで日本の伝統を守り続けて来た(と自称する)伝統保守主義者の側にあるのではないか。

 例えば、重度知的障がい者の方は選挙に行く事が出来ない。

 何を当然の事を言っているんだと思われるかもしれないが、選挙に行けないという事は、例えば自分達に直接関係がある障がい者福祉の分野に理解のある候補者を推す事が出来ないという事だ。権利は持っていても、それを行使する能力がないからという理由で、選挙制度上彼等に与えられている一票は無効になってしまっている。選挙で票を投じる事が出来ないという事は、彼等が議会制民主主義の中から閉め出されている事に等しい訳だが、ずっとそれは仕方のない事だとされ続けているし、だからこそ彼等の様な少数派は、多数派の中にも少数派の意見に耳を傾けてくれる人がいる筈だという「善意」を信じて生きて行くしかない訳だ。その善意に期待する事すら出来なくなったとしたら、彼等はどうすればいい? ある日突然植松の様な人間がまた現れて、それに対して匿名で「よくやった」なんていうコメントが集まったとしたら、それに対する怒りや悲しみや恐れには誰が寄り添ってくれるというのか。

 ここまで書いて来て、人間怒りを通り越すと逆に悲しくなり、それすら通り越すと今度は感情の起伏が無くなって来るのだなという事に気付いたりもする訳だが、最後に言う事があるとすれば、保守だとかリベラルだとか、右翼だとか左翼だとか、そういう自分の立場を明確に定めて相手と対立して行くだけの言論に存在価値はあるのかという事だ。対立する相手の意見は全否定して聞く耳を持たず、自分の意見だけを押し通そうとする。そうやって相手を批判する為に、本来無関係の人々が抱えている人権問題まで巻き込んで傷付けておきながら、それを指摘されると今度は言葉狩りだと居直る。そこに何らかの「生産性」があるのかよ、という事だ。生産性を議論するならこちらの方が先なんじゃないのか。


 声の大きな論客の皆様。あなたの発言に「生産性」はありますか?


 自分はここから、ずっと見ているつもりです。だから何だ、と言われるでしょうが。

テーマ : 人権
ジャンル : 政治・経済

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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