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他者への非難という石を投げてしまう前に フェルディナント・フォン・シーラッハ:著 酒寄進一:訳『刑罰』



 はじめに、以下の感想は東京創元社様の『ゲラ版先読みキャンペーン』で頂いたゲラ版を読んだ上で書いたものです。今回はゲラ版の先読みという貴重な体験をさせて頂いた事に、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。
 本作の発売日は6月12日です。まもなくですね。

 自分の感想はキャンペーン用に書いた文章とほぼ同じものを転載します。また、本キャンペーンに当選された他の方々の感想は、以下でその一部を読む事ができます。

 


 それでは、ここからはいつも通りの感想です。


 本作は『人と罪との距離』を諭す物語なのだろうと思う。

 誰かが罪を犯す時、周囲の人々は罪人を非難し、彼に刑罰が課される事を望む。犯した罪には相応の報いがあるべきだというのは誰もが思う事だ。ただ、その刑罰の軽重は、純粋に「彼が犯した罪の重さ」によって判断されているのだろうか。自分にはむしろ、「その罪と周囲の人間との距離」によって決められている様に思える。

 例えば交通事故がある。過去に仕事の一環で事故対応をしていた事があるが、事故を起こしたくて起こす人はいない。ただ結果として起きてしまった事故については、謝罪や賠償といった責任が伴う。死亡事故の様に、取り返しが付かない過ちになってしまう事もある。

 自分でも自動車を運転する人なら、過失による事故を強く非難する事には抵抗があるものだ。なぜなら「自分も同じ過ちを犯してしまう危険性があるから」だ。ただこれが「飲酒事故」になると話は変わってくる。飲酒運転は、過失と違ってドライバーの意思で回避出来る事で、多くの人にとっては「自分が犯す筈のない罪」だからだ。それは「安心して非難する事が出来る罪」だとも言える。自分から遠く離れた罪。こちらから石を投げ付けられる程には近いが、反論や擁護といった反撃が自分に届く事はないと分かっている罪。

 飲酒事故の様に、非難されるべき罪が責められる事は自然だから、人々に疑問を抱かせない。ただこの「自分と罪との距離」を判断基準にした量刑や他者への非難が世に蔓延る事を許すと、それは次第に『私刑』や『他者への不寛容』に向かって行く。つまるところ、自分と罪人の間に境界線を引いて、離れた場所から非難をする=石を投げるという行為は、それが正義感や道徳心や義憤によるものであったとしても、差別や無理解といった「より大きく遍在する罪」の芽を内包する事になる。

 自分が立っている側が正義で、相手にこそ非があり、罪があるのだとすれば、罪人に求める刑罰はより重く、容赦ないものになる。正義の側は、自分がしている事、断罪する事の正しさに酔う事すら出来るだろう。でも、自分はふと思うのだ。

 「罪人を石打ちにしている時の自分の顔は、他者に見せられるものだろうか」

 自分は本作に、その「自らの醜い側面」を刺された様に思う。安心して他者に石を投げていた者が、ある筈がないと思っていた反撃に射抜かれたという事だ。しかもそれは外側からではなく、自分の内側から突き出た槍に串刺しにされた様なものだった。それは言い換えれば、『恥を知った』という事であり、自分の中の醜悪さに気付いたという事だと思う。

 本作には様々な罪人が登場する。殺人や窃盗、麻薬取引など罪状は様々だ。ただ彼等が抱える動機は、自分の中にも容易に見付けられる様なものばかりだ。他者への憎しみ、孤独、妬み、偏見。そこかしこに犯罪の芽はある。自分が引いた、罪人と自分との境界線は、そこまではっきりとしたものではないし、乗り越えられない壁でもない。子どもが砂場に棒で書いた様な、頼りない、今にも消えそうな線でしかない。その事を自覚しよう。人と罪との距離は、それほど離れてはいないのだから。そう本作は諭す。

 罪の芽は自分の中にも存在する。それを自覚する事。人間の弱さに目を向け、他者の過ちに寛容であろうとする事。正義という名の不寛容に飲まれる前に、自分が握り締めた他者への非難という石を投げてしまう前に、その置き場を探してみようとする事。本作はきっとその困難さから読者を救い出し、より良い場所へと引き上げてくれると思う。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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